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大阪府泉佐野市 土丸・雨山城跡 犬鳴山七宝瀧寺 和泉葛城山

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土丸・雨山城跡。慈眼院付近から。泉佐野市。
平成28512日(木)。
水間寺から、泉佐野市の荘園遺跡「日根荘」見学のため、泉佐野市役所近くの「歴史館いずみさの」へ向かった。ここは、文化施設が集まっており、地下に広大な駐車場がある。
「歴史館いずみさの」は入場無料だが、撮影禁止。荘園遺跡「日根荘」を中心に紹介している。
10分ほどのイメージビデオは日根神社の祭礼など、中世からの伝統や景観を良く伝えている。
館内には「日根野村絵図」や「政基公旅引付」などの複製が展示されている。
日根荘見学のための小冊子やリーフレット類を豊富に入手できた。
 
日根荘(ひねのしょう)は鎌倉時代から戦国時代にかけて現在の泉佐野市域に所在した九条家の荘園で、14世紀初頭に描かれた「日根野村絵図」や領主九条政基が文亀元年(1501)3月から永正元年(150412月まで4年間の日根荘滞在時に記した『政基公旅引付』などの九条家文書をはじめ日根荘関連資料が多数伝わっている。また史料に登場する場所や景観が現地に残されていることでも知られ、荘園研究に良く取り上げられている。
 
近年、国史跡に追加指定された「土丸・雨山城跡」を最初に見学し、犬鳴山七宝瀧寺、和泉葛城山、犬鳴山温泉と巡り、大木地区、日根野地区の順に見学した。
 
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土丸城跡頂上下台地から日根野地区、関西空港方面。
熊取町の雨山(標高312m)と泉佐野市の土丸山(標高287m)の2つの山頂付近には、南北朝期から戦国期(13001600年頃)にかけての曲輪、武者隠し、堀切など城郭に関わる当時のさまざまな遺構が確認されている。
「政基公旅引付」には戦乱から逃れようと山にこもったとの記録も残っており、日根荘との関わりが深い山であった。
 
「日根荘ガイドブック」には地図および登山道案内が記載されている。土丸城跡への登山口は分かりにくい。慈眼院から大木地区、犬鳴山へ向かう車道が阪和道と交差する地点に登山口があり、阪和道の橋脚に登山口の小さい標識が掲示されている。向い側には自動車の修理工場がある。問題は駐車スペースがないことで、路肩の歩道上にやむなく駐車した。
 
1050分に登山口から出発し、土丸・雨山城跡を見学し、1220分に帰着した。 
 
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土丸城跡。
南北朝のころに築かれ、紀州と和泉を結ぶ粉河街道、河内へ抜ける水間道などの主要街道の結節部に位置し、戦略上重要な土地であった。
山上には、龍王神社や顕彰碑、古井戸、武者隠しなどが残されている。
深い鞍部を下り、雨山城跡へ向かう。
 
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展望所。大木地区。
九条政基が文亀元年(1501)から四年間滞在した入山田村の長福寺は現在の大木地区にあった。
 
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井戸跡。
土丸と雨山の谷筋にあり、山城の自炊井戸だったといわれる。ここから、雨山城本丸下の千畳敷といわれる地点まで数分。
 
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雨山城跡。本丸跡。
大きな古樹が残っている。
 
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雨山城跡。本丸跡。
休憩小屋とその奥に雨山神社が祀られている。休憩小屋の中に古絵図が掲示されている。
 
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雨山城跡。本丸跡。休憩小屋横から関西空港方面。
大坂湾からこの山までの平野部が意外と狭いことに驚いた。
 
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雨山城跡。古絵図。                   (拡大可) 
雨山城は貞和21346)年に、楠木氏の一族の橋本正高が築いたとされ、南朝方にとっては紀泉国境の防衛線の基幹部分として非常に重要な山城であった。1347年、北朝方の命を受けて、和泉国守護に就任した高師泰は、雨山の麓、熊取荘に隣接する日根野荘の在地の武士であった日根野時盛にこの城の固めを命じた。
その後、橋本正高は1352年に北朝方の日根野氏から土丸城を奪取し、城郭を整備すると共に自らの勢力を拡大していったが、足利義満の軍の攻撃を受けて落城した。
永徳二年(1382)には楠木正勝が拠るが山名義理に攻められ落城するなど、南北両朝の争奪戦が続く重要な拠点だった。文明16(1484)、畠山政長と畠山義就が土丸城で合戦、日根野景盛が土丸城を守った。
その後は和泉山脈の南側にある根来寺の根来寺衆の拠点となった時期もあり、豊臣秀吉の根来・紀州攻めの際には、在地の武士勢力と根来寺の寺院勢力が合体して、この城に籠もったとされている。
 
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雨山城跡。古絵図。                                       (拡大可)
谷をへだてて相対する土丸城を雨山城の出城と考え、これらは一つの山城として機能していたと考えられる。
 
往路を下り、1220分に阪和道下の登山口へ帰着。そのまま、犬鳴山七宝瀧寺へ向かう。
 
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犬鳴山七宝瀧寺。護摩場付近の渓流。
犬鳴山の中腹に建つ真言宗犬鳴派の本山。斉明天皇7年(661)に役行者によって開山されたとされる。本尊は倶利伽不動明王。葛城修験道の根本道場でもある。
淳和天皇の時代(823-833)、この寺で雨乞いの祈祷をしたところ、念願の雨が降ったため、山中にある著名な七つの滝(両界、塔、弁財天、小槻、奥、千丈、布引)を金銀などの七宝にたとえて七宝瀧寺の名称となった。
犬鳴山の名は、宇多天皇の時代(887-897)、山中で大蛇に狙われた猟師を、その愛犬がけたたましく吠え、身を挺して主人を守ったことから名付けられたものという。
 
山間の車道から標識に従い、護摩場付近の駐車場へ下った。
 
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犬鳴山七宝瀧寺。行者の滝。
本堂(不動堂)を靴のまま、広い堂内を抜け、奥の引き戸を開け外に出るとそこは行場になっている。赤い行者橋の向こうに行者の滝が水しぶきを上げて流れ落ちている。この先は有料なので、引き返す。
 
山間の車道をそのまま、和泉葛城山頂へ向かう。
 
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和泉葛城山。山頂。八大竜王社(石宝殿)。
和泉葛城山は大阪府と和歌山県の境にあり、標高858m。三角点を捜したが発見できず。
林道は狭いが、舗装は良好だった。山頂に広い駐車場がある。
山頂から展望台までは数分の距離。
 
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和泉葛城山。山頂展望台からの風景。関西国際空港方面。
 
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和泉葛城山。山頂展望台からの風景。和歌山県紀の川市方面。
往路を犬鳴山方面へ下り、犬鳴山温泉の「山の湯」で入浴。775円。大木地区へ向かった。

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