蓮華寺。国史跡「日根荘遺跡」の一つ。泉佐野市。大木地区。
平成28年5月12日(木)。
日根荘は鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の泉佐野市域にあった九条家領の荘園であった。有力貴族の五摂家の一つである九条家により、天福2(1234)年に日根荘が立荘され、宮内庁所蔵の『九条家文書』を中心に当時の様子がわかる「日根野村絵図)」や九条政基が入山田村長福寺滞在時に記した『政基公旅引付』などの文書がたくさん残されていることから、当時のことを解明する手がかりがたくさんあり、また絵図で描かれた寺社堂などの建築物やため池、丘陵などの景観が現在でもよく残されていることで、全国的にも有名な中世の荘園遺跡となっている。
この歴史的景観を構成するものの中から、寺社やため池・水路など16か所が「日根荘遺跡」として国史跡に指定されている。
また、大木地区は「日根荘大木の農村景観」として重要文化的景観に選定されている。
大木地区は日根荘時代には入山田村とよばれていた。
蓮華寺の名は政基公旅引付に見える。上大木の蓮華寺は、応永24(1417)年の資料(九条家文書)で舟淵村の項に蓮華寺の記載があり、中世には存在していました。現在は上大木地区の集会所として使用され、講などが行われている。境内には、中世の石仏や一石五輪塔などの石造物が残されている。
犬鳴山温泉から往路の車道を下り、上大木地区に入ったが、道標が全くなく、蓮華寺の所在も不明だった。日根荘遺跡全体に道標はなく、簡単な案内図で類推するしかない。大阪府全体にいえるが、観光に力を入れていない、住民の通常の生活優先という姿勢が貫かれている。分からないではないが、歴史を顧みる姿勢より、実利優先というのはどうかと思う。
駐車スペースもないので、幹線道路から橋を渡った地点に駐車し、集落内を歩いたが、人の気配もない。ようやく、住民の女性に場所を聞いて、先ほど歩いた所かと気づいた。寺というより集会所の建物だった。
香積寺跡。国史跡。
上大木の集落を眺望する山の中腹にあり、毘沙門堂や蓮華寺と同じく七宝瀧寺の末寺と伝わる。
『政基公旅引付』に歳末や年始に際して政基に伺候する香積寺の僧侶の様子や、政基が入山田村宛に書状を送ったさい、香積寺の僧が読み上げ披露したと記されている。
現在は廃寺となっているが、指定地内には寛正4(1463)年の一石五輪塔や天正年間の宝筺印塔、石造物等をはじめ中近世の石造物が残されている。
幸いに山へ登る道は一本しかなく、坂道を数分登ると、空き地が左側にあった。標識は一切ないので、香積寺跡とは確認しづらいが、多数の石塔が残存している一画があり、まず間違いないと思った。
香積寺跡から見下ろす上大木地区。
何となく中世の荘園風景が見えてくる。
毘沙門堂。毘沙門天の石碑。中大木地区。
幹線道路に毘沙門堂の標識があり、坂道を登った。しかし、坂道の頂上まで登り切ったが、毘沙門堂は見つからなかった。運よく住民の男性がいたので尋ねると、薪が集積された家の裏側にあるという。道理で道から見えないはずだ。坂道を戻ると、入口に石碑があり、先へ歩くと毘沙門堂の正面に回り込めた。
毘沙門堂。国史跡。
東に面して建ち、谷を見下ろしている。堂の正面上部の黒壁には半彫りされた菊水紋が浮かび上がり、堂内の厨子には本尊の毘沙門天が安置され、南朝の楠木氏との関係を示すといわれる。
毘沙門堂が建つ谷筋には南北朝時代に後村上天皇の仮御所が設けられていたと伝わる。「政基公旅引付」にも御所谷集会所との記述があり、境内には南北朝時代の正平3(1348)年銘の板碑などが残り、谷筋に暮らす人たちによって講が行われている。
御所谷の坂道脇にある樋。
火走神社。国史跡。中大木地区。
九条政基在荘時は、入山田村四か村(舟淵・菖蒲・大木・槌丸)全体の神社で、滝大明神あるいは滝宮と呼ばれ、水との結びつきの強い神社であるが、火の神様が祀られている。
政基が筆写した「犬鳴山七宝滝寺縁起」には、七宝滝寺との関連も記され、『政基公旅引付』には、
文亀元(1501)年、旱魃にさいして執り行われた請雨の儀、盂蘭盆に行われた風流念仏、8月の
滝宮祭礼での猿楽や田楽の催しなど、優れた芸能に政基が驚いている様子が記されている。
火走神社本殿。
秋季祭礼では、泉州地域でも珍しい形態となっただんじりを担ぐ、担いダンジリの宮入りが行われている。この担いダンジリ行事と火走神社本殿は、泉佐野市の文化財に指定され、本殿の右側に建てられている摂社幸神社本殿は、重要文化財に指定されている。
長福寺跡。国史跡。下大木地区。
円満寺境内からの風景。田地の奥に長福寺があった。
長福寺は、文亀元(1501)年に九条政基が日根荘に下向し、入山田村に入って永正元(1504)年に帰京するまでの4年間、政基の居所となった寺院である。
「政基公旅引付」には、左義長などの行事や入山田の住民が風流踊りを披露しに来たことなどが記されている。
慶長16(1611)年の資料を最後に長福寺の名が見えず、江戸時代に作成された寺社明細帳でも確認することができないことから、この間に廃絶したものと思われる。平成14・15年度に実施した発掘調査により、大量の瓦とともに建物跡・園池・井戸・石組みの暗渠水路などが発見され、寺院跡と確認された。
円満寺。国史跡。
円満寺は犬鳴山七宝瀧寺の末寺と伝わる。
「政基公旅引付」の文亀元年8月28日の条に、和泉半守護の被官である日根野氏が日根野村東方に攻めてきたさい、円満寺の早鐘を鳴らして、急を在地に伝え、村人を招集したとある。また、文亀3(1503)年4月5日の条には、入山田の人々が円満寺で般若心経一万巻を購読して祈祷し、一万度参りをしたことが記載されている。
現在は、下大木地区の集会所として利用され、念仏講が行われている。
円満寺への道標はないので、苦労して辿り着いた。このあと、日根野地区へ向かった。