慈眼院。多宝塔。国宝。国史跡「日根荘遺跡」。泉佐野市。日根野地区。
平成28年5月12日(木)。
慈眼院は真言宗御室派の寺院である。寺伝によれば、天武2年(673)天武天皇の勅願寺として、覚豪阿闍梨によって創建され、平安時代初期、嵯峨天皇の弘仁年間に、空海が2年間住んで一山を整備したという。文和2年(1353)南北朝の戦火で炎上した後、後村上・後亀山の両帝の勅命で再興されたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州鎮撫の時、金堂、多宝塔を除く一山が炎上した。のち、慶長7年(1602)豊臣秀頼が一山を再興。江戸初期の寛文年間には、岸和田の領主岡部侯の帰依を得て一山の大営繕が行われた。寛文5(1665)年、京都仁和寺門跡より慈眼院の院号が下賜され、仁和寺の末寺となって今日に至っている。
南に隣接する日根神社とは神宮寺の関係にあり、井堰山願成就寺・大井堰御坊ともよばれていた。
「日根野村絵図」に描かれ、日根荘の政所であった無辺光院の後身とする説もある。
国宝の多宝塔は鎌倉期時代の文永8年(1271年)建立。四注造、檜皮葺き、3間2層、全高10m余。屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小。石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとされる。初層内部には平安時代末期の木造大日如来坐像を安置する。
幹線道路沿いに駐車場がある。慈眼院多宝塔への入口が分からず、本坊の玄関を探し、インターホンで連絡し、拝観料を支払ったのち、中庭へ案内された。すぐ南側に日根神社がある。
慈眼院。金堂。重要文化財。
鎌倉時代後期の建造で、方3間、単層、寄棟造、本瓦葺。堂内には長さ30㎝、幅10㎝ほどの杉の薄板の経文が書かれ、渦巻き型に束ねられた「杮経(笹塔婆)」が保管されている。
日根神社。鳥居。
日根神社。国史跡。
延喜式式内社。大井関大明神・大井堰神社とも称され、古代の豪族日根造の祖先神を祀る神社であったとされる。
樫井川流域の開発と関係が深い神社で、社地が当地域の灌漑の取水点で、境内を流れる井川を司る神社であった。中世には日根荘の惣社・鎮守であった。「日根野村絵図」には「大井関大明神」と記されている。『政基公旅引付』には、毎年4月2日に祭礼があり猿楽の奉納や競馬、弓矢神事などが盛大に行われていたと記されている。
九条政基が帰洛後、豊臣秀吉の紀州攻めにより焼失したが、慶長7[1602]年、豊臣秀頼により再建された。
井川(ゆかわ)。日根神社から慈眼院本坊前の境内を流れる。国史跡。
樫井川から取水する水路で、日根荘の中位段丘面の開発に重要な役割を果たしたと考えられる。開削時期は不明だが、日根荘成立時には部分的に利用されていたと考えられる。土丸の取水口から日根神社と慈眼院の境内の中を流れ、十二谷池まで延長約2.75kmを高度差約3mで流れるようにつくられている。現在も日根野地区の主要な水路で広範囲を灌漑している。
総福寺。天満宮。本殿。重文。国史跡。
総福寺は「日根野村絵図」に記される禅林寺に比定されている。境内の南側に天満宮があり、天正年間(1573~1585)に建てられた本殿は一間社春日造で安土桃山時代の建築様式を残す。
「九条家文書」には「天満宮」「天神社」がみえ、「御湯立(おゆたて)」の行事が行われたと記されており、この天満宮がそれにあたると考えられている。
新道出牛神。国史跡。
牛神の信仰は年に1度、農作業などで活躍する牛をつれてお参りをするもので、泉南地域では広く行われていた。「日根野村絵図」に牛神松が描かれている。石祠と石灯籠は文化年間(1804~1817年)に造られたもので、日根野地区では新道出の他にも牛神の碑が残っている。新道出牛神は近世には牛神座があり、現在でも8月に祭りが催される。
かなり分かりづらい奥まった場所にあり、近くにいた児童に連れていってもらった。
十二谷池。国史跡。
日根野地区と熊取町との境にある丘陵地の谷筋を堰き止める形で築かれ、井川によって樫井川から取水し、日根野から広範囲の水田に灌漑している。
「日根野村絵図」に描かれる住持谷池(じゅうじたにいけ)にあたる。この池は「日根野村・井原村絵図」にも描かれており、日根野村の用水を束ねる親池として重要な役割を果たしてきた。
嘉吉元(1441)年には十二谷新池(下池)が築かれ、日根野村・井原村・壇波羅密寺村による共同利用の契約をした資料が残されている。
八重治池。国史跡。
荒れ地だった日根野の村を開発するために、十二谷池などの親池に加え、八重治池などの子池が造られた。日根荘成立時の天福2(1234)年には既に存在していた八重池と考えられ、「日根野村絵図」にも描かれている。
ゴルフ場の私道に迷い込み、戻って池の端に辿り着いた。
尼津池。国史跡。
日根野丘陵にあるため池群の一つで、日根荘開発の主役となった池と考えられている。
日根荘成立時の天福2(1234)年には既に存在していた甘漬池(あまづけいけ)と考えられ、「日根野村絵図」では、池群の最も上手に描かれている。後に上流部に大池が築造されるまでは、丘陵部のため池群の親池であったと考えられる。現在でも尼津池からの水路は井川までの範囲を灌漑している。
野々宮跡。国史跡。背後の双耳峰が土丸・雨山。
明治41年の神社合祀により日根神社境内へ移された野々宮神社の宮跡で、旧境内地の本殿付近に野々宮跡の石碑が建てられている。
古代では丹生都比売神社とよばれ、高野山の地主神で雨を司る丹生都比売が祀られていた。「日根野村絵図」に丹生大明神として描かれ、『政基公旅引付』にも日根野野宮の祭礼についての記述が見られる。境内地は井川水路のそばまで広がり、水利や開発と関係の深い神社であったと考えられる。
道標は一切ないので、史跡マップなどで位置を類推するしかなかった。日根荘遺跡は近年の指定にもかかわらず、道標類が極端に乏しく、見込みより大幅に時間を消耗したが、全指定史跡を実見した。18時近くになったので、翌日の日程を考慮して、和歌山県境に近い岬町の道の駅へ向かった。