西陵古墳。大阪府泉南郡岬町淡輪。国史跡。
平成28年5月14日(土)。
西陵古墳の形状は前方後円墳で、淡輪古墳群を構成する古墳の1つ。淡輪古墳群では最大、全国では第28位の規模の古墳で、5世紀前半頃の築造とされる。築造年代の古さは西陵古墳・西小山古墳・宇土墓古墳の順で、円筒埴輪の独特な技法(淡輪技法)から和歌山市の紀ノ川北岸の古墳との共通性が認識されている。
大阪府の最南端、大阪湾に面した台地上に位置し、丘陵末端を利用して築造されている。墳丘は3段築成で、墳丘長は約210m、後円部の直径は約115m、高さ18m、前方部の幅は約100m、高さ約14m。墳丘周囲には幅15~35mの周濠が巡らされている。
墳丘表面は葺石で覆われ、円筒埴輪・朝顔形埴輪、蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪が並べられていた。主体部の竪穴式石室に凝灰岩製の長持形石棺を納めていたと推測される。
被葬者は明らかでないが、「日本書紀」雄略天皇9年3月条・5月条に見える5世紀後半の将軍の紀小弓と伝えられる。「日本書紀」によると、紀小弓は新羅征討の将軍に任じられて戦ったが、病気により新羅で亡くなった。そこで天皇は土師連小鳥に命じて、「田身輪邑」に紀小弓の墓を造らせたという。
宇土墓古墳。大阪府泉南郡岬町淡輪。宮内庁管理。
淡輪ニサンザイ古墳、宇度墓古墳ともいわれ、第11代垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の墓に治定されている。
形状は前方後円墳で、淡輪古墳群を構成する古墳の1つ。西陵古墳の800mほど東にある。墳丘は3段築成、墳丘長は172m後円部径93m、前方部幅108m。円筒埴輪列、家・盾・キヌガサ・鳥などの埴輪が認められている。墳丘周囲には水濠が巡らされている。
築造年代は、出土埴輪から5世紀中頃から後半頃と推定されている。円筒埴輪に見られる独特の技法(淡輪技法)から紀氏との強い関わりの中で成立したと考えられている。
樫井合戦古戦場。泉佐野市南中樫井。
慶長20(1615)年4月29日に戦闘が行われた大坂夏の陣の最初の合戦場。熊野街道筋や樫井川の河原で戦われた。樫井川にかかる明治大橋のたもとに樫井合戦の古戦場の碑が建てられている。
当時熊野街道は長滝蟻通神社附近から松林がつづき、街道わきは湿地や沼が広がっていた。樫井は熊野街道の沿道に家並があるほか、樫井川の氾濫原に川原が広がっていた。
樫井合戦古戦場。
河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫る徳川軍に対し、豊臣軍は紀伊の浅野長晟への攻撃を決定、大野治房を主将に、塙直之、岡部則綱、淡輪重政ら兵3000を送った。また、紀伊および和泉で一揆を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応するよう画策した。
紀伊の浅野長晟は4月28日、兵5000を率いて和歌山城を出発した。先鋒隊は和泉国佐野に着陣した日の夜半、偵察により豊臣軍の先鋒を発見、本陣に報告した。この時豊臣軍の兵数を2万と誤認したため、浅野勢は少数での迎撃に適した樫井まで退却することにし、亀田高綱を和泉国安松に殿軍として残した。
4月29日早朝、豊臣軍の先鋒塙直之、岡部則綱と亀田高綱の間で戦闘が開始された。亀田は遅滞戦術を展開し、豊臣軍を樫井まで誘引した。樫井では亀田隊に浅野知近、上田重安らが加わり豊臣軍と樫井の町中と川原で入り乱れた白兵戦となった。塙と岡部は先鋒を争う形で突出したため後続が追いつかず、やがて岡部は敗走、塙と淡輪は戦死した。戦闘後、浅野勢は一旦紀伊国山口まで撤退した。
淡輪重政の墓。宝篋印塔。寛永16年造立後、平成12年新造。泉佐野市南中樫井。
淡輪氏は和泉国淡輪荘の豪族。妹の小督局(お菊の母)は豊臣秀次の側室であったが、三条河原で処刑され、淡輪家も連累して所領が没収された。次いで同郷の小西行長に仕えたが、関ヶ原の後に同家も改易されて浪人となった。
慶長19年(1614年)から始まる大坂の陣では、兄の重利が浅野家に仕えていた一方で、重政は旧領回復を目指して豊臣方に属した。翌年の夏の陣では大野治長に従い、紀州攻めの一員として加わったが、樫井の戦いで徳川方の浅野長晟軍と戦って討死した。
塙団右衛門直之の墓。五輪塔。寛永8(1631)年建立。泉佐野市南中樫井。
出自は不明。豊臣秀吉の家臣で伊予松山の大名となった加藤嘉明に召し抱えられ、朝鮮の役で活躍した。戦役後、鉄砲大将に出世したが、関ヶ原の戦い後に勘気を蒙り、出奔した。のちに、小早川秀秋、松平忠吉に仕えたが、主人の死により再度浪人した。
大坂冬の陣が始まると、豊臣方に加わり、大野治房の組に預けられた。翌年の大坂夏の陣では部将の1人に任じられ、緒戦における紀州攻めにおいて大野治房の指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦。4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙い、先陣の岡部則綱と競い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥り、討死した。
岸和田城。
岸和田城。
岸和田城。櫓門。
岸和田城。復興天守。八陣の庭。
岸和田城の来歴は不明だが、応永15年(1408年)以後、和泉守護細川家が岸和田城と関わりを持ち、守護代松浦氏一族が戦国時代後期までほぼ岸和田城を居城としていた。
天正5年(1577年)、織田信長は紀州征伐を行い、紀伊方面の抑えとして織田信張を岸和田城へ置いた。天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じる。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万の兵で侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた。これに対して中村一氏と松浦宗清は城兵8000で守り切った(岸和田合戦)。この時、無数の蛸に救われたという伝説がある(蛸地蔵伝説)。
天正13(1585)年、羽柴秀吉は紀州根来寺討滅後、伯父小出秀政を城主とし、秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれた。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、のちに北条氏重、小出吉英、元和5年(1619年)松平康重が城主となった。松平康重が山崎城へ転出すると寛永17年(1631年)、高槻城より岡部宣勝が入城し、6万石(のち5万3千石)の城主となった。以後明治維新による廃藩の時代まで岡部氏13代の居城となった。
天守閣は文政10(1827)年に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していない。現天守閣は、昭和29年に建造された3層3階の模擬天守である。
江戸時代の岸和田城。上が北。
岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから千亀利城と呼ばれるようになった。
松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。
中央に本丸・天守閣、左に二の丸。その下にあぶみ堀。戦国時代までは海に突き出た丘に置かれた二の丸が本城で、あぶみ堀は馬出の名残りとされる。
年代記(江戸藩邸日記)。江戸末期。
文政7(1824)年から安政7(1860)年までの日記。罫線で上下2段に区分し、上段には公的な記事、下段には私的な記事が記された。
天守閣から和泉山地の方向。
天守閣から大坂湾の方向。二の丸、八陣の庭(国名勝)。
八陣の庭は昭和28年に作庭家の重森三玲によって作庭された。砂庭式枯山水庭園で、諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されている。
天守閣から南の方向。
岸和田城二の郭の「新御茶屋」、「薬草園」の跡地には昭和初期に旧寺田財閥当主家別邸の五風荘が建てられた。近代和風建築と回遊式日本庭園として国登録有形文化財に登録されている。
岸和田市立自泉会館。岸和田城の北隣にある多目的文化施設。国の登録有形文化財。
岸和田紡績創設者の寺田甚与茂に贈られた慰労金を基にして社長を継いだ長男の寺田甚吉が1932年に建設した寺田財閥の倶楽部であった。岸紡や寺田家の関連建築を多く手がけた渡辺節の設計によるもので、近世スパニッシュ様式の建築である。
岸和田市立自泉会館。1階内部。
現在は文化施設として利用されている。