泉井上神社。社殿。和泉市府中町。
平成28年5月14日(土)。
「和泉」の国名の由来となった泉(和泉清水)の井戸の上に祀られた神社。延喜式内社。
創建時期は定かでないが、仲哀天皇2年(200)、神功皇后がこの地に行啓した際、突然、清水が湧き出した。皇后はこれを喜び、霊泉として祀ったことから、この地を「和泉」と呼ぶようになったという。また豊臣秀吉はこの和泉清水の水を大坂城まで運ばせ、茶の湯に用いたとも伝えられる。
神社境内に駐車。社殿横の社務所でリーフレットを貰う。和泉清水の見学は不可。
泉井上神社。五社総社拝殿。
霊亀2年(716)、和泉監(いずみのげん)が置かれ、この地が地方政治の中心地となった時、泉井上神社の傍らに、和泉五社(大鳥、泉穴師、聖、積川、日根)を合祀した和泉国総社が建立された。
泉井上神社の本殿北には、慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建された五社総社の本殿が残り、国の重要文化財に指定されている。本殿は拝殿の奥にあり、見学はできない。
和泉国府庁趾碑。和泉市府中町。
泉井上神社東方すぐの御館山公園内にある。
もともとは「泉」一字であった。「和泉」の国名は和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令により国名を二字にする必要があり佳字の「和」を付与したものにしたためで、「和」は読まない。
『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみのげん)が建てられた。元正天皇の離宮(茅渟宮、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であるとみられる。
その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置された。
池上曽根遺跡。古代地理概念図。大阪府立弥生文化博物館。 (拡大可)
博物館は弥生時代の池上曽根遺跡南にあり、広大な無料駐車場がある。展示は充実しており、当日は「鉄の弥生時代」という特別展および関連した講演会が開催されていた。
展示については、別途記載。1時間余り見学後、北隣の池上曽根史跡公園へ向かった。
池上曽根遺跡。復元ジオラマ。
池上曽根遺跡は、弥生時代の全期間(2300~1800年前)を通じて営まれた、わが国屈指の環濠集落と言われている。南北1.5キロメートル、東西0.6キロメートルの範囲に広がる総面積60万平方メートルもの規模をもつ大遺跡である。
池上曽根史跡公園。「いずみの高殿」。手前は「やよいの井戸」。和泉市。
弥生時代中期の大型掘立柱建物。建物は東西19.2m、南北6.9m、面積133㎡と、弥生時代最大級の規模をもつ建物で、地面に掘った穴に直接柱を立てた掘立柱建物で、26本の柱で構成されていた。直径60㎝もある当時の柱の根元が腐らずに、17本も残されていた。
大型建物に残されていたヒノキの柱が紀元前52年に伐切されたものであることがわかり、弥生時代中期の実際の年代が初めて明らかにされた。
大型建物は壁のない高床建物で、屋根裏が二階になった屋根倉形式といわれる形で復元された。近くで見つかった土器に描かれていた弥生時代の建物の絵をもとに、全体の形が決められた。約80畳の広さがあり、高さ11m、床高4m。階上は神の宿る聖なる部屋、階下は人がたくさん集まるスペースとなっている。
屋根の上には神の使いの鳥をおき、屋根の形は魂を運んだと言われる聖なる船の姿をイメージしている。
池上曽根史跡公園。「やよいの大井戸」。巨大な丸太くりぬき井戸。
建物の南側にある弥生時代中期の井戸は、直径2.3m、深さ2mのクスノキの大木を刳りぬいて井筒にしており、刳りぬき井戸としてはわが国最大のものである。発掘されたときもこんこんと水が湧き、二千年間、井戸が生き続けていた。
小形竪穴。神秘の調味料「魚醤」の製造所とされる。
温度と湿度を一定に保つ半地下式の施設。
周辺に漁網のおもりやタコ壺が多量に出土し、漁業関連の加工施設と判明し、神事で使用するために魚を発酵させて魚醤を作る土屋根・半地下式のムロと推定された。
サ
ヌカイト埋納遺跡。
石斧と石器の材料であるサヌカイトを埋めた祭祀遺跡。
小型掘立柱建物。
「いずみの高殿」の周囲には当時のハイテク産業であった青銅器や鉄器などの金属器の製作工房が広がっていた。一般の住居は集落の外縁に集中していたが、池上曽根遺跡の発展の一翼を担った金属器製作工房は祭祀空間の周辺に配置されていた。
環濠。
環濠の周辺には人々の住居が密集しており、用途によって区切られた集落の姿が明らかになった。
「弥生情報館」。展示。池上曽根史跡公園。
石鏃。錐。スクレイパーなど。
このあと、葛葉稲荷神社へ向かった。