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和泉市 堺市 葛葉稲荷神社 和泉黄金塚古墳 泉北すえむら資料館

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葛葉稲荷神社。和泉市葛の葉町。
平成28514日(土)。
信太山丘陵にはかつて「信太の森」とよばれる深い森が存在し、信太郷には百済系氏族の信太首一族たちの陰陽師たちが住んでいた。葛葉稲荷神社は信太森神社ともいわれ、信太首の子孫が和泉国三ノ宮の聖神社から分祀されたとされる。
安倍清明の生誕伝説に関連する神社である。近くの聖神社が伝承にある信太明神の地らしいが、ここでも雰囲気は味わえる。
 
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江戸時代後期の信太の森。
 
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「葛の葉伝説」。「恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉」。
阿倍野の里に住んでいた安倍保名が信太明神で若狐が猟師に追われているところを救う。人間となった狐と保名がむすばれて子供(安倍童子)が生まれ、童子は7歳の時、狐の正体を現した母を見る。母狐は童子と夫から別れ信太の森に帰る際に、「恋しくば、尋ね来て見よ、和泉なる、信太の森の、うらみ葛の葉」という和歌を書き残す。夫と童子は信太の森に母を訪ねる。童子は成長して安倍晴明を名乗り、陰陽師としての秘術を身につけ、都で芦屋道満との呪術比べで勝利し、天皇に仕えて出世するという安倍晴明説話が残る。
 
信太陰陽師たちは、聖神社の大夫として、安倍晴明の子孫である土御門家から許可状をもらって各地に和泉暦を配っていた。平安時代中期に「道の傑出者」として陰陽道の名人と高く評価された安倍晴明は、中世から近世にかけて物語の世界で次第に神格化されてゆくが、土御門家配下の各地の陰陽師集団による宣伝活動によるところが大きいと思われる。
 
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梟(ふくろう)の灯篭。千利休作の灯篭。葛葉稲荷神社境内。
 
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和泉黄金塚古墳。和泉市上代町。国史跡。
古墳時代前期末(4世紀後半頃)の前方後円墳。「景初三年」の銘をもつ画文帯四神四獣鏡が出土したことで知られる。古墳は信太山丘陵の先端にあり、全長約94m、後円部の直径約60m、高さ約9m、前方部は推定幅約42m、高さ約6.5m
後円部の粘土槨に木製棺の埋葬施設が3つ平行に並んで発掘され、中央槨の棺内からは半三角縁二神二獣鏡、勾玉、棗玉、管玉、石釧、車輪石などが、棺外からは景初三年銘画文帯四神四獣鏡、鉄刀、鉄剣、鉄斧、鉄鎌などが出土した。
東側の槨の棺内からは三角縁盤龍鏡、画文帯四神四獣鏡、甲、冑、勾玉、棗玉、管玉、鍬形石、水晶製大型切り子玉(日本最大)などが、棺外からは鉄槍、鉄鉾、鉄鏃などが出土した。
論議をよんだのは「景初三年」銘のある画文帯四神四獣鏡で、景初3年(239)は邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢して銅鏡100面を与えられた年である。
 
194511月に、当時17歳の少年だった森浩一が同古墳の荒廃に気付いたのをきっかけとして末永雅雄博士とともに応急調査し、旧信太山陸軍演習場の塹壕の横(のちの東槨)からは巴形銅器3個が着いた革製漆塗盾が、後円部の西(のちの西槨)からは短甲、鉄刀、打製石鏃などが出土した。
「僕は考古学に鍛えられた」森浩一著を読んで、記憶に残った。
 
北側の道路に駐車し、畦道を苦労して進み、墳丘手前まで接近したが、登ることはできなかった。墳丘に登るためには、市教委などの許可が必要らしい。駐車した場所が農道の入口だったことが、帰ったときに分かり、農作業の男性に文句をいわれた。
 
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四耳壺。堺市立泉北すえむら資料館(旧大阪府立泉北考古資料館)。堺市南区若松台。
5世紀。栂地区225号窯出土。
資料館は1970年泉北ニュータウンの開発に伴って出土した須恵器などを展示している。設計は建築家の槇文彦。2010年橋下徹知事による大阪維新プログラムによって堺市に移管され、現在の名称に改名された。2016年老朽化のため、9月末で閉館することが決まったので、現在は閉館したようだ。
 
周辺は、国内最大の須恵器生産地「陶邑古窯址群」の中心地域で、500基を超える窯跡が発掘された。また、『日本書紀』崇神天皇7年条にある「茅渟県陶邑」(ちぬのあがたのすえむら)の最有力候補地に比定されている。
 
泉北高速鉄道泉が丘駅付近の大蓮公園内にあり、半地下式の博物館である。変わった構造だとは思ったが、高名な槇文彦の作品とは知らなかった。内部の各展示室間は高低差があり、凝ってはいるが、使い勝手は悪そうである。駐車場がないので、徒歩15分ほどと離れたコンビニに無断駐車した。帰る時に、受付の男性にそのことを言うと駐車場は必要ないと返された。全国的にも見て重要な文化施設なので、駐車場は必須だと思った。ネットでは、駐車場が確保できない点が運営上でネックだという意見があるのは当然であろう。
また、文楽など文化や歴史に興味を示さない大阪維新の会は、日本の伝統や文化を守るつもりがないという思想の持ち主であることを痛感した。
 
陶邑窯跡群。
5世紀に生産がはじまったとされる日本の須恵器は、これまで窯を使用せずいわゆる露天焼きで製作された縄文土器や弥生土器と違い、登り窯で高温(1100度前後)で焼成する新技術でつくられた硬質の灰色の土器である。この新しい技術は、朝鮮半島から渡来してきた人々によってもたらされた。
中国からの影響を受けて原三国時代の朝鮮半島で陶質土器の生産がはじまり、半島南部の洛東江流域で生産が盛んにおこなわれ、5世紀の前半には古代に陶邑(すえむら)と称された地域に須恵器生産の技術が伝わったとされる。
日本書紀の雄略天皇七年に、「百済から手末(てなずえ)の手伎(てひと)来る」という記述があり、また垂仁天皇三年には、新羅系土器の伝播が、崇神天皇七年には、陶邑についての記述が見られる。これらの須恵器は、祭祀に用いられたと考えられ、大和朝廷直轄のもとで作られ、石津川付近に集約され、選別されて大阪湾から大和や各地の豪族などに送られたと考えられている。
陶邑は、現在の大阪府南部の堺市・和泉市・岸和田市・大阪狭山市にまたがる地域で、現在は陶邑窯跡群という名称がつけられており、10世紀までの1000基を超す窯跡がある。特に信太山の大野池地区には、陶邑窯跡群でも最古の様式の須恵器が出土している。 
 
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初期須恵器。須恵器。杯身。
須恵器は硬質の土器で、高温の還元炎で焼くため、一般にネズミ色をしており、現代の陶磁器の源流をなすものである。初期の須恵器には朝鮮半島の陶質土器と似ているものがある。
 
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初期須恵器。耳杯。
TK87号窯。
 
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須恵器の穴窯。ジオラマ。
傾斜地に幅2m、長さ10m前後のトンネル式の穴窯(登り窯)を築き、1000度前後の高温で一度に大量の須恵器を焼成する。
 
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須恵器の穴窯。想像図。
 
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重文指定の須恵器。
 
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重文指定の須恵器。平瓶。長頸壺。
 
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重文指定の須恵器。長頸壺。
 
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栂第
61号窯。7世紀初期。
陶邑窯跡群のほとんどは破壊されたが、資料館の北に1基のみ保存公開されている。この窯は泉北丘陵の窯のうちでも最大規模のもので、原寸で移築され復原された。
手前の床の平らな部分で薪を焚き、上部に煙道を設け、斜面に壺や甕などを置いて焼きあげた。
 
このあと、羽曳野市の道の駅へ移動。

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