Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

堺市 反正陵古墳 方違神社 履中陵古墳 大鳥神社 家原寺 ニサンザイ古墳 土塔

$
0
0
イメージ 1
反正陵古墳(田出井山古墳)。堺市堺区北三国ヶ丘町。
平成28515日(日)。
百舌鳥古墳群北端にある全長約148mの前方後円墳。5世紀後半の築造。百舌鳥3陵の一つ百舌鳥耳原北陵とも呼ばれている。
墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15m。百舌鳥古墳群では7番目の大きさで、仁徳天皇陵古墳の1/3ほどの大きさ。墳丘は3段に築かれその形や出土した埴輪から、仁徳陵古墳(大仙古墳)より少し新しい5世紀後半頃に造られたと考えられている。
 現在一重の盾型周濠がめぐっているが、かつて二重濠があったことが確認されている。古墳の規模がかなり小さいことから、ニサンザイ古墳を反正天皇陵と考える説がある。
 
北隣にある方違神社境内に駐車。仁徳陵古墳は以前現地および市役所21階から見学したので、それ以外の天皇陵を見学することにした。
 
イメージ 2
方違神社。堺市堺区北三国ヶ丘町。
古来、陰陽道では、旅をするときにその方角がよくない場合、一度別の方向へ移動してから、本来の場所へ向かう「方違え」の風習があった。この神社は方祟りの災厄を除く利益のある神社とされる。
この地は、摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の三国の境界にあり、三国山、三国の衢(ちまた)、三国丘と称され、何処の国にも属さない東西南北の方位を消し去る清浄な地であるということが信仰の対象とされた。「堺」の地名も三国の境に接する場所であったことに由来している。
境内では方違神社創建2100年記念として、社殿造営事業が施工されている。
 
イメージ 3
履中陵古墳(ミサンザイ古墳)。堺市西区石津ヶ丘。
墳丘の全長約365m、後円部径205 m、高さ約27.6m、前方部幅約235m、高さ約25.3mの巨大前方後円墳で、仁徳陵、応神陵についで全国で3番目に大きい古墳。
百舌鳥耳原南陵とよばれる百舌鳥耳原三陵の一つ。
形や出土した埴輪、陪塚の出土品などから仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたことがわかっている。
墳丘は3段築成で西側のくびれ部には造出しがあり、葺石と埴輪がある。一重の盾形周濠と堤がめぐっているが、1994年に外側に幅10m程の2重目の周濠が見つかっている。
 
イメージ 4
大鳥神社。堺市西区鳳北町。
和泉の国一の宮。延喜式神名帳記載の名神大社。祭神は日本武尊と大鳥連祖神。
日本武尊が死後白鳥となり最後に留まった大鳥の地で白鳥を祭るために建てられたとされるが、実際は中臣氏の一族である大鳥連が祖神である天児屋根命を祀ったことに始まると考えられる。
境内は約15千坪で、種々の樹木があり千種の森とよばれる広大な神域。
大鳥造の本殿は古代神社建築の一つで、出雲大社の建築様式の系列に属しているが、心柱がなくなり、入口が中央について内陣と外陣に区別されている点が異なっており、つぎの住吉大社の建築様式へと移行する段階の様式である。
 
イメージ 13
与謝野晶子の歌碑。大鳥神社境内。
「和泉なるわがうぶすなの大鳥の宮居の杉の青き一むら」。
『時事新報』の大正3年1月1日号に掲載された短歌。
与謝野晶子は明治11年堺市の老舗和菓子屋で鳳(ほう)宗七の三女志ようとして生まれた。この歌は、幼い頃の晶子が親しんだ大鳥大社を詠んだものだという。歌碑は、平成18年与謝野晶子倶楽部設立10周年記念に建立されたもので、田辺聖子の書による。
 
イメージ 5
家原寺(えばらじ)。堺市西区家原寺町。
寺伝によると704年(慶雲元年)行基が、父の菩提を弔うため生家を寺に改めたのに始まるとされる。高野山真言宗別格本山の寺院。本尊は文殊菩薩。
行基(668~749年)は、父高志才智、母蜂田古爾比売の長子として生まれた。高志氏は百済の王仁の子孫といわれる渡来系氏族である。
 
僧侶を国家機関と朝廷が定め、民衆への仏教の布教活動が禁じられた時代に、民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬され、溜池、溝、堀、架橋など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得た。その後、日本で最初の大僧正となり、聖武天皇から東大寺造立の実質上の責任者として招聘された。
 
イメージ 6
行基菩薩誕生塚。家原寺境内。
本堂の左開山堂の傍には、「行基菩薩誕生塚」と彫られた石塔が立てられ、その後ろには行基菩薩御影堂が建っている。
 
9時開場と知らず、8時過ぎに着いたので、勝手がよく分からず、裏手から境内に進入し駐車したら、見学中に職員に注意されたが、そのままお帰り下さいといわれた。境内は池や三重塔もあり広い。
 
イメージ 7
ニサンザイ古墳。堺市北区百舌鳥西之町。
百舌鳥古墳群の南東端にある前方部を西に向けた大型前方後円墳で、墳丘の規模は全長約290m、後円部径約156m、高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9mと全国で7番目の大きさである。百舌鳥古墳群の中で最も新しい5世紀後半から末頃に造られたとされる。
3段に築かれた墳丘はくびれ部の両側には造出しがあり、主体部の構造や副葬品は不明だが、葺石と埴輪のあることが確認されている。現在は一重の盾形周濠がめぐっているが、昭和51年に外濠のあることがわかった。
 前方部が広くどっしりと安定感のある古墳で、反正天皇陵古墳(田出井山古墳)のほぼ4倍の大きさがあり、5世紀後半に限れば全国最大の古墳であることから、これを反正天皇陵と考える説もある。ニサンザイは陵(みささぎ)が語源と考えられ、墳丘は宮内庁が反正天皇の空墓として、陵墓参考地に指定し管理している。
 
イメージ 8
土塔。堺市中区土塔町。国史跡。
土塔は、堺出身の奈良時代の僧行基が建立したとされる四十九院のひとつ大野寺の仏塔である。平安時代の「行基年譜」には神亀4(727)の起工とあり、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵伝」にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と記された塔が描かれている。
 
イメージ 9
土塔。
 発掘調査によって土を盛り上げた一辺53.1m、高さ8.6m以上の十三重の塔で、各層には瓦が葺かれていたことが分かった。
平成214月復元整備によって創建当時の姿が再現され、同時に立体模型や土層の断面展示、発掘調査の状況を再現したコーナーもできた。
 
イメージ 10
土塔。立体模型。
現在の姿は全体を盛土で保護し、十二層まで復元したものである。
 
イメージ 11
土塔。構造模型。狭山池博物館。
土ブロックを並べて四辺を形作り、間に土を入れる。すべての段において、一番外側から土ブロック列を1列ずつ減らして、前記の作業を繰り返す。最上段のみ、丸く形づくる。
 
イメージ 12
土塔。軒丸瓦。
神亀四年と記された軒丸瓦が出土している。全面に約60,000枚もの瓦が葺かれ、各層の垂直面にも瓦を立てて風雨による盛土の崩壊を防いでいた。文字を記した瓦が1,300点出土、大半は人名で行基と共に土塔を建立した知識と呼ばれる人々の名と考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前も見られる。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles