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Channel: いちご畑よ永遠に
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羽曳野市 藤井寺市 野中寺 お染久松の墓 国府遺跡 河内国府跡

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野中寺(やちゅうじ)。現在の中門。羽曳野市野々上。
平成28515日(日)。
野中寺は、聖徳太子の命により蘇我馬子が造ったと伝えられ、南河内郡太子町の叡福寺を「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺を「下の太子」と呼ぶのに対し、野中寺は「中の太子」と呼ばれている。本寺は丹比郡野中郷を本拠としていた渡来系氏族の船氏の氏寺ではないかとされる。
 
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野中寺旧伽藍跡。塔跡。国史跡。
飛鳥白鳳時代の旧伽藍跡。塔跡から出土した瓦に650年の銘記があり、7世紀前半の創建と考えられる。
丹比道(たじひみち・後の竹内街道)沿いに南大門を構え、七堂伽藍(金堂・講堂・塔・食堂・鐘楼・経蔵・僧房)を備えた大寺院であったが、創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて焼失している。中門は旧竹内街道に面した八脚門建物で、東西12m、南北12mの基壇規模をもつ。
三重塔は凝灰岩製の基壇化粧をもち、東西13.62m、南北12.9m、高さ1.5mの規模であった。
 
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塔心礎。
基壇の中央に心礎を置き、その四方に12個の礎石を配しており、他の寺院の塔に見られる四天柱礎は存在しなかった。塔心礎は凹柱座で、直径71㎝、深さ28㎝の心柱穴と、その心柱穴の三方に添え木穴が掘られており、明日香の橘寺と共通する特徴を持つ。柱穴側面に横穴式舎利奉安施設を彫り加えた珍しい構造であることが確認されている。塔心礎上面に亀の線刻が認められる。
 
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野中寺旧伽藍跡。金堂跡。
金堂跡は塔跡に対して東側に存在していた。現在残っている土壇や礎石などから開口4間、奥行き3間の南北に長い建物で、おそらく西面していたと思われ、東面していた塔跡と金堂跡とは向き合っていたことになる。
 一般的に塔が西にあり金堂が東にある堂跡の配置は法隆寺に類似するが、法隆寺の場合、野中寺のように堂塔が向かい合わず、塔と金堂は南面している。堂塔が向き合う形は川原寺にみられるが、野中寺の配置とは金堂と塔が逆である。このことから、野中寺は飛鳥時代に多く用いられた四天王寺の配置方法より新しく、法隆寺より古い形態で、白鳳期の官寺に用いられていた川原寺の変形した配置方法(野中寺式伽藍配置)が用いられていたと考えられる。
 
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ヒチンジョ池西古墳の石槨。野中寺境内。
ヒチンジョ池西古墳は塚穴古墳(聖徳太子の弟・来目皇子の墓)の西方にあった古墳で、昭和23年頃の開墾の際に発見された横口式石槨の古墳である。
横口式石槨は精巧に加工した凝灰岩を組み合わせて造られ、内部からは銅製釘や黒漆の残片が見つかったので、漆を塗った木棺が安置されていたと考えられる。横口式石槨の形態などから7世紀末葉に築造されたものとみられる。この石槨は、発見直後に野中寺境内に移された。
 
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お染久松の墓。野中寺墓地。
墓地の奥には、心中事件を起こし歌舞伎,浄瑠璃などの題材になった『お染久松の墓』がある。
お染は『妙法信女』、久松は『宗眛真士』となっており裏面に『享保七年(1722十一月晦(つごもり) 大阪東堀天満屋権右衛門清主』と刻まれている。
お染の実家である天満屋が17回忌に供養のために建立したという。お染久松の供養塚は野崎観音(慈眼寺)にもある。
 
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国府遺跡の碑。河内国府跡。藤井寺市惣社。
この地は大和川と石川の合流点の西、羽曳野丘陵の東北部段丘崖上の低い台地状の地形に位置し、古代から交通の要衝で、河内国府の所在地として認識されている。
遺跡地は早くから人骨が出土することで知られていた。日本には旧石器時代は存在しなかったと考えられていた大正5年、旧石器時代の可能性のある石器が採集されたことから調査が始まり、昭和32年に、縄文時代の遺物を包含する地層の下から、ナイフ形の特徴的な旧石器が発見され、旧石器時代の遺跡として確認された。
遺跡からは旧石器時代の遺物だけでなく、縄文時代・弥生時代の人骨、弥生時代の土坑、古墳時代の製塩土器、飛鳥時代創建の衣縫寺跡の関係遺構、奈良時代の河内国府に関係する建物群跡と円面硯、施釉陶器、土馬など、また、平安時代以降の黒色土器、土釜、墨書土器なども出土した。
 
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国府遺跡。河内国府跡。
現在は史跡の一部が公園として整備されている。
なお、国府跡碑は北西200mにある志貴県主神社境内に建っているようだ。

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