玉手山公園。頂上展望台から西の風景。中央の丘は応神陵。柏原市玉手町。
平成28年5月15日(日)。
柏原市立玉手山公園など玉手山の一帯は、大坂夏の陣(1615)の古戦場であるとともに古墳時代前期(4世紀)の古墳群でもある。大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されている。
かつては玉手山丘陵の中心部に、河南鉄道が明治41(1908)年に日本で二番目、西日本では最古の遊園地を開業したが、現在は市立玉手山公園として開放されている。
11時頃、南入口の駐車場に到着したが、日曜日のため満車で、石川沿いにある第二駐車場へ誘導された。園内に入り、展示館を経て頂上展望台に着いたのは、12時前だった。
奈良時代の玉手山周辺図。 (拡大可)
玉手山は上部左の片山廃寺とある丘陵。
斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」は、飛鳥時代に難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備された。
奈良時代になると、難波京と平城京を結ぶ街道として利用された。最短ルートである暗越奈良街道が急峻な山越えであるため、比較的坂の緩い平坦路として重宝された。
かつて、大和川付け替え前は、途中の「河内国府」(現在の藤井寺市国府)で「長尾街道」「東高野街道」と離合した。
大和川左岸の丘陵地麓には河内国分寺が建てられ、玉手山に至る地域は近世は国分村とよばれた。
玉手山の石川を隔てた対岸には羽曳野丘陵があり、北東端に河内国府、応神陵をはじめとする古市古墳群が位置する。
大坂夏の陣。国分方面の戦闘要図。玉手山公園展示館。
玉手山丘陵の北端に小松山(玉手山古墳3号墳)、片山がある。
慶長20年(1615)4月28日、豊臣方の大野治房らは、泉南の樫井で徳川方の浅野長晟らと合戦し、豊臣方の塙団右衛門が討ち死にした。豊臣方は、徳川方が河内街道からだけでなく奈良街道からも進撃して来ることを知る。
5月1日、豊臣方の後藤基次、薄田兼相ら平野に出陣。真田幸村ら天王寺に布陣。
5月5日、水野勝成、河内国分村に布陣。徳川方の本多忠政、松平忠明、伊達政宗らの諸隊も国分村に到着。
5月6日、後藤基次、小松山で徳川方の諸隊と激突して、討ち死に。(小松山の戦い)。薄田兼相、道明寺河原の戦いで討ち死に。豊臣方の木村重成らの諸将、八尾・若江で相次いで討ち死に。真田幸村隊は、味方の撤退援護のため誉田村に前進、伊達隊の攻撃を撃退し敗走させたものの、木村隊が壊滅したとの報告を受け、大坂城へ撤退した。
5月7日、真田幸村、家康の本陣に突入して討ち死に。
5月8日、大坂城落城。秀頼、淀君らは自害。豊臣氏、滅亡。
後藤又兵衛基次の碑。玉手山公園。歴史の丘。玉手山第7号墳の後円部。
5月5日、河内国平野で宿営した後藤基次、真田幸村らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で徳川方を迎え撃つことを取り決めた。同日夜、後藤基次は、約2千8百の軍勢を率いて平野を進発。奈良街道を東進し、6日未明、藤井寺に到着した。しかし、濃霧のため、他の諸隊は、予定どおり到着できなかった。このため、基次は単独で道明寺に進出したが、このときすでに徳川方は国分に入ってしまっていた。そこで、基次は、後続の諸隊を待つことなく、石川を渡り、当初の作戦どおり、小松山を占領した。
午前4時ごろ、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の諸隊と激突、攻め登って来る徳川方とのあいだで、小松山の争奪をめぐって激しい戦闘が繰り広げられた。しかし、徳川方は、水野勝成隊、本多忠政隊、松平忠明隊、伊達政宗隊の合計2万3千もの兵力。初めは優勢だった後藤隊も衆寡敵せず、しだいに圧倒されて三方から包囲された形になり、基次は討ち死に、後藤隊も壊滅してしまった。時に6日午前10時ごろ、激闘実に6時間であった。
玉手山古墳群と同時代の古墳。柏原市立歴史資料館。 (拡大可)
玉手山古墳群の古墳は、すべて古墳時代前期(3世紀後半から4世紀前半)に築造されたものである。短期間に複数の地域首長が、玉手山丘陵を共同の墓域として、造墓活動を繰り返した結果、形成されたものだと考えられている。
西殿塚古墳(天理市)は手白香皇女陵と治定されているが、台与・崇神天皇などの被葬者説がある。行燈山古墳(天理市)は10代崇神天皇陵、渋谷向山古墳(天理市)は12代景行天皇陵、津堂城山古墳(藤井寺市)は19代允恭天皇の陵墓参考地とされている。
玉手山古墳群のすぐ西にある古市古墳群の巨大前方後円墳は、大王級王墓として、津堂城山古墳(4世紀後半)、仲津山古墳(4世紀末)、誉田御廟山古墳(応神陵・5世紀初頭)、堺市の百舌鳥古墳群は履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳・5世紀初頭)、仁徳天皇陵(大仙陵古墳・5世紀前半)、反正天皇陵(田出井山古墳・5世紀中頃)の築造順と推定されている。
4世紀に玉手山古墳群を造営した豪族が発展して、のちに古市古墳群を造営するようになったとする説がある。すなわち、玉手山古墳群を造営した豪族こそが、後の大和朝廷の先祖だとする。
ただ、玉手山古墳群の古墳は、時代が新しくなるほど質が低下していく傾向がある。そうすると、これらの豪族たちは、むしろ衰えていったと考える方が自然だということになる。
玉手山古墳群。地形図。柏原市立歴史資料館。 (拡大可)
古墳群には13基の前方後円墳と20数基の円墳があり、北から順に1号墳、2号墳と呼ばれている。これだけ多くの前期古墳が存在するのは、大和盆地東南部の大和古墳群周辺以外にはみられない。古墳群は竪穴式石室を主体設備とし、鏡・玉・刀剣、工具類を副葬していた。
玉手山7号墳。前方部。安福寺境内。
前方後円墳。墳長150メートル。玉手山丘陵の最高所にあり、古墳群最大規模の古墳で、古墳群の中でも新しい時期に属し、滑石製合子が出土している。安福寺の後ろにあるところから後山古墳とも呼ばれる。また尾張侯墓地古墳ともよばれる。
前方部には尾張徳川家第2代藩主・徳川光友らの墓があり、後円部には大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔が建っている。
玉手山7号墳。測量図。柏原市立歴史資料館。 (拡大可)
後円部中央に長さ約7m、幅約6mの墓坑が存在するのが確認されているがその内側にあるはずの竪穴式石室は確認されなかった。粘土槨あるいは石棺直葬の形をとるのかも知れない。
尾張藩2代藩主徳川光友一族の墓。安福寺境内。
中央に徳川光友(1625~1700)、左に正室の千代姫(3代将軍家光の娘、1637~99)、右に第3代藩主綱誠(1652~99)の墓。徳川光友の霊廟は名古屋市の建中寺にある。
安福寺は寺伝によれば奈良時代に行基によって建立されるが、中世には荒れ果ててしまい、小堂がただ一棟あるのみであったという。寛文年間(1661~ 1672年)に浄土宗の僧珂億上人がこの地を訪れ、安福寺を再建する。尾張大納言徳川光友は珂億上人の学徳に深く帰依し、安福寺に寺田を寄付するなど、明治維新に至るまで歴代尾張徳川家により援助を受けた。
徳川光友の宝篋印塔。安福寺境内。
刻銘は瑞龍院殿二品前亜相天蓮社順譽源正大居士。
安福寺。参道入口。
安福寺横穴群。
安福寺参道の両側に合計32基の古墳時代後期の横穴群がある。凝灰岩の崖面を掘って造られたもので、短い羨道と玄室からなり、天井はゆるいアーチ状となっている。造り付けの石棺をもつもの、陶質棺がおさめられているもの、騎馬人物像などの線刻壁画が描かれたものなどがあり、土師氏あるいは渡来系氏族の墓地とも考えられている。
割竹形石棺蓋。重文。安福寺境内。
明治時代に玉手山3号墳(勝負山古墳)から出土したとされる刳り抜き式石棺蓋が置かれており、かつては手水鉢として使われていた。長さ2.56m、幅90㎝で、側縁部に直線と弧線を組み合わせた直弧文が線刻されている。石材は香川県鷲ノ山産の凝灰岩である。
片山神社。入口。
玉手山丘陵の北東末端台地の上にある。片山村一帯は白鳳時代には安宿(やすかべ)郡尾張郷と呼ばれ、尾張連の本拠地だった場所である。尾張連は天照大神の孫である天火明命の子孫と称して尾張国造を世襲、安閑天皇の母は尾張連草香の娘である目子媛である。
片山神社。
片山神社は元々尾張氏の氏神として安閑天皇を祀っていたと考えられる。
片山神社に隣接して薬師堂があり、一辺約12mの塔基壇が発見され、700年頃に創建された片山廃寺跡と判明した。片山廃寺は尾張連一族の氏寺跡の可能性がある。