柏原市南部の史跡地図。柏原市立歴史資料館。 (拡大可)
平成28年5月15日(日)。
玉手山丘陵から北へ進み、大和川の北岸へ渡る。橋の北東高台に高井田横穴群があり、その一角に柏原市立歴史資料館がある。入場無料で資料もあるので、市内の史跡見学には便利な施設である。
大和川と石川の合流点を中心とする一帯は、わが国でも有数の古墳の密集地で、古墳時代前期(4世紀頃)の松岳山古墳(国史跡) 群や玉手山古墳群、後期から終末期(6~7世紀)の平尾山古墳群など、多数の古墳が残されており、古墳の数は市町村としては全国一の規模という。6~7世紀ごろに造られた高井田横穴群(国史跡)と安福寺横穴群(府史跡)のうち、高井田横穴群の線刻壁画は全国的に有名である。
奈良時代には河内国分寺・国分尼寺が大和川南岸の丘陵地麓に建立された。
楕円筒埴輪。松岳山古墳出土。
松岳山古墳(国史跡)は墳丘長130mの前方後円墳で、4世紀末の築造とされる。
楕円筒埴輪は前方部前面の墳裾で樹立状態のものが2点、後円部南側の墳丘外でも破片が採集されており、墳裾には楕円筒埴輪が廻らされていたとみられる。
長径70cm、短径40cm前後で、高さのわかるものは143cmと158cmである。体部には突帯がめぐり、短い鰭がついている。口縁は強く外反し、前面には体部と同様の鰭を伴う。透孔は巴形、三角形、逆三角形、横長長方形である。1点の楕円筒埴輪には、最上段の前面にのみ巴形の透孔が2個みられ、あたかも人の顔を連想させる。体部には1段おきに三角形、逆三角形の透孔が穿たれている。
頸甲(あかべよろい)。肩甲(かたよろい)。高井田山古墳出土。
高井田山古墳は資料館の裏山に所在する。5世紀末頃の横穴式石室を持つ直径22mの円墳である。石室内から甲冑などの鉄製品や青銅製火熨斗(アイロン)などが出土し、朝鮮半島との深いつながりをうかがわせる。
小札草摺。復元模型。高井田山古墳出土。
草摺はふともも部分を保護する甲(よろい)。出土した小札から全体の形態を復原した。
高井田山古墳。
埋葬施設は古いタイプの横穴式石室で、薄い板状の石を積み上げて造られた。天井はドーム状と推定される。石室内には2基の木棺が置かれ、被葬者は夫婦とみられる。銅鏡、火熨斗、ガラス玉、金製耳環、鉄製武具類など多数の副葬品が出土した。夫婦の埋葬や副葬品から百済からの渡来人の墓とみられる。
平尾山古墳群。
柏原市高井田、安堂とその周辺に所在する古墳時代後期の群集墳で、平尾山千塚古墳群ともいう。
生駒山地南端の丘陵地帯に位置し、1200基以上の古墳が確認されている。分布範囲は東西3km、南北2kmにおよぶ。古墳群の墳丘の大半は径10m前後の円墳で構成されており、内部構造も調査で確認されているものの多くは横穴式石室である。
古墳群の形成は6世紀前半から7世紀後半までと考えられる。被葬者集団は、渡来系氏族の古墳に特徴的な炊飯具のミニュチュアの副葬がみられることから、河内に定着した渡来系集団の可能性が高い。
単龍文環頭。かんざし。銀製指輪。平尾山古墳群出土。
大県ムラの鉄生産工房。想像図。
鐸比古神社参道の周辺にある大県遺跡から5世紀末から6世紀の土器とともに、鉄滓、フイゴ羽口、砥石、炉跡など製鉄に関する遺物が大量に発見された。
大県遺跡出土品。鉄滓、フイゴ羽口、砥石など。
線刻壁画。船。高井田横穴群。
横穴は、凝灰岩などの軟らかい岩盤を掘った墳丘を持たない古墳の一形態で、1つの横穴を30~40年にわたって使用し、3人前後の人が葬られたと考えられる。
高井田横穴群では162基の横穴が確認されており、そのうち27基に線刻壁画が描かれている。ゴンドラ形の船に乗る人物の壁画が最も有名で、他にも馬、鳥、花をはじめ色々な絵や記号が描かれている
線刻壁画。騎馬人物と琴。高井田横穴群。
大和川の付け替え前の地形図。 (拡大可)
大和川の付け替えは宝永元年(1704)に行われた。大阪平野に入ったあと北に向かって流れ、淀川と合流していた大和川を、直接、西の方、堺の海へ流すという大土木工事が柏原の地を起点にして行われた。江戸時代には、舟による運送業も行われ、「柏原船」や「国分船」が運行していた。
柏原市立歴史資料館の見学を終え、再び大和川南岸へ向かい、まず松岳山古墳を見学した。
松岳山古墳。後円部墳頂の石棺と立石。国史跡。
松岳山古墳は、大和川左岸、国分神社の奥に広がる丘陵上にある全長約130mの前方後円墳である。後円部墳頂には組合式石棺(6枚の石板を組み合せた棺)が露出している。側石4枚は香川県鷲ノ山産凝灰岩が使われている。
石棺の南北には大きな板石が立てられている。南の立石は高さ2.3m、幅1.4m、北の立石は高さが1.8m、幅が1.4mで南立石には1箇所、北立石には2箇所の円孔がある。立石の用途や何のための孔なのかは不明である。古墳からは銅鏡、装飾品、武器、農工具、土器、埴輪などが出土がした。
松岳山古墳の造営は、玉手山7号墳とほぼ同時期で、大王家にとって大和川水運と石材管理などを担う重要な職業集団の首長であったと考えられる。
船氏墳墓碑。
後円部のやや下の歩道横にある。668年に作られた最古の墓誌である国宝「銅製船氏王後墓誌」が周辺から出土したと伝えられている。
銘文により、王後は船氏の中祖王智仁の孫、那沛故(なはこ)の子で、推古・舒明両朝に仕えて、舒明天皇から603年(推古天皇11)制定の十二階冠位の第三等にあたる「大仁(だいにん)」を賜り、641年(舒明天皇13)に没し、668年(天智天皇7)、夫人安理故能刀自(ありこのとじ)とともに、大兄刀羅古(とらこ)の墓に並ぶ墓をつくり葬られたことが知られる。日本最古の墓誌であるが、文中の「官位」という用語や、闕字(けつじ)の礼(れい)を施している点からみて、墓誌は、天武朝末年以降の追納とする説が有力である。
渡来系氏族船氏は第16代百済王辰斯王の子辰孫王を発祥とする王辰爾(おうじんに、王智仁)を祖とし、王後は辰爾の孫にあたる。日本書紀によれば553年(欽明天皇14年)蘇我稲目が勅命を受け、王辰爾を遣わして船の賦を記録させた。この時の功績によって、王辰爾は船史(ふねのふびと)の姓を賜った。また、王辰爾は572年(敏達天皇元年)に、誰も読むことのできなかった高句麗の上表文を解読したことにより敏達天皇と蘇我馬子から賞賛された。
河内国分寺跡。塔跡。柏原市国分東条町。
天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)により、全国に国分寺(僧寺)と国分尼寺(尼寺)が設置された。
出土した瓦の年代や遺構の規模、文書資料などから塔跡が河内国分寺の七重塔跡と考えられている。
河内国分寺から西北の風景。右に松岳山丘陵。左に玉手山丘陵。
河内国分寺跡から裏山の急坂を上ると、現代の国分寺があり、境内からの眺めがよい。
16時過ぎになり、羽曳野市の道の駅へ向かった。