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大東市 東大阪市 野崎観音 飯盛山城跡 石切劔箭神社 枚岡神社

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野崎観音。慈眼寺。大東市野崎。
平成28516日(月)。
慈眼寺の宗派は曹洞宗。本尊は十一面観世音菩薩。本尊にちなみ、野崎観音といわれる。
寺伝によれば、天平勝宝年間(749~ 757年)行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。平安時代、遊女・江口の君(江口の長者)が、難病治癒の報恩を感謝するため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力したという。永禄8年(1565年)には三好義興・松永久秀の戦禍にかかり、本尊を除いて全焼した。元和2年(1616年)に青厳によって再興され、天和2年(1682年)に「野崎詣り」が始まる。
かつて大坂からは、堂島川・土佐堀川から野崎観音巡りの屋形船が行き来していた。大和川付け替え以降は寝屋川および深野池を干拓した深野新田の中に設けられた観音井路を舟が通っていた。
 
道の駅羽曳野から、飯盛山城跡へ登るため、まず北側登城口の四条畷神社へ向かい、無料駐車場を捜したがなかったので、南側登城口のある野崎観音へ行くことにした。屋形船の歌がイメージにあったので、野崎観音が山の中腹にあることに驚いた。寺の無料駐車場に駐車した。
 
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野崎観音。本堂。
昭和25年、日下大龍寺観音堂を譲り受け、解体移築したもので、棟木に元禄八年の銘がある。
境内の左側から山道を登ると、飯盛山などへ至る登山道があるため、登山者の参詣も多い。
 
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石造九重層塔。野崎観音の裏山にある。
造立銘は永仁2年(1294年)とあり、74字の金石文を礎石に刻する北河内最古の層塔。室戸台風により最上層と相輪を失って、高さ280㎝の八重層塔となっている。
 
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高櫓郭に建つ楠木正行の銅像。飯盛山城跡。
石造九重層塔からラジオ送信所のある千畳敷曲を経て35分ほどで到着。高櫓曲輪は、25m×15mの削平地がある。すぐ北側に本曲輪があり、展望所がある。
 
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飯盛山城跡。案内図。                  (拡大可)
飯盛山は、生駒山地とは滝谷をはさんで切り離されたように独立し、大東市と四條畷市にまたがる山で、戦国時代の山城があった山で知られている。
城の規模は東西400m×南北650m、標高316m、比高300m
正平3年(1348年)1月の四條畷の戦いで、北朝方の高師直が飯盛山城に立て篭もった南朝方を攻めたというが、この時代はまだ恒久的な城ではなかったと思われている。
天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり、飯盛山城を築いたのは、畠山家の家臣木沢長政とされる。木沢氏は、清滝街道を中心に北河内に勢力をもつ在地土豪と考えられている。
守護代の木沢長政が守護の畠山義堯(義宣)から守護職を奪い獲る企てが発覚し、享禄4年(1531年)8月、畠山義堯は三好元長の一族三好勝宗に飯盛山城を攻めさせた。享禄55月に再攻撃したが、天文元年(1532年)6月に山科本願寺の法主証如の援軍により、木沢長政方が勝利した。
 
三好長慶は、天文11年(1542)木沢長政を倒し、長政亡き後、飯盛山城主になった畠山高政の家臣安見宗房を敗走させ、永禄3(1560年)年、芥川山城を嫡男義興をゆずり、飯盛山城に入城した。三好長慶は飯盛山・芥川・高屋の三城を中心に治安維持につとめ畿内を支配した。
 
永禄6年(1563)には飯盛山城でキリスト教が布教され飯盛城下ではキリスト教が繁栄した。しかし同年、芥川山城を居城とした嫡子の義興が22歳で病死。翌年、弟の安宅冬康を飯盛山城で自殺させたが、それは流言の結果であった。三次長慶自身も同年743歳で没した。
その後三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めていたようだが、織田信長により摂河平定が行われると三人衆も軍門に下り、飯盛山城は畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって昭高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は殺害され、天正4年(1576年)に落城し廃城となった。
 
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本曲輪からの展望。大阪平野。神戸方面。
 
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本曲輪からの展望。大阪平野。大阪城方面。
 
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飯盛山城跡。案内図。                                  (拡大可)
 
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本曲輪東側の石垣。
山城では珍しい石垣がある。三好長慶が、かつて居城としていた芥川山城も同様の石垣が見受けられるため、三好長慶の改修時に築かれた可能性がある。但し山城での石垣は珍しいので、三好長慶の改修時ではなく、織田信長の落城後に再構築した可能性も指摘されている。
 
11時過ぎに野崎観音へ帰り、スーパー銭湯で汗を流したのち、石切神社へ向かった。
 
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石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)。東大阪市東石切町。
延喜式式内社。古代の豪族物部氏の祖神饒速日尊と可美真手命を祭神とする。
「石切さん」「腫れ物の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。
石切劔箭という名は石でも切れる鋭利な剣と矢を意味し、軍事を司った物部氏一族を祀る社にふさわしい。境内には法通寺跡があり、物部氏一族の穂積氏の氏寺とされる。また、代々の社家は木積氏が務めた。
 
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神紋。下り藤に「石切」。
 
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石切劔箭神社。絵馬殿。屋根の上には劔箭がある。
 
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石切参道。
賑やかで有名な参道。
 
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枚岡神社(ひらおかじんじゃ)。東大阪市出雲井町。
延喜式式内社(名神大社)、河内国一の宮。旧社格は官幣大社で、神紋は「下がり藤」。
生駒山地の峰の一つ神津嶽から西に伸びる尾根に位置する。
中臣氏の祖の天種子命が神津嶽の頂に祖神の天児屋根神と比売御神を祀ったのが創建とされる。
白雉2年(650年)中臣氏および支流の平岡連が二神を山頂から中腹の現在地に移した。
奈良の春日大社は、和銅年間(708~715)に当社の天児屋根神と比売御神を勧請した神社であったため、当社は「元春日平岡大社」と称され、藤原(中臣)氏の繁栄とともに尊崇された。明治維新まで神官は中臣氏の子孫という水走氏が代々務めた。
 

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