心合寺山(しおんじやま)古墳・復元模型。国史跡。八尾市大竹。
平成28年5月16日(月)。
5世紀初頭に築造された中河内地域で最大の全長約160mの大規模な前方後円墳で、後円部の直径約92m・高さ約13m、前方部の幅約90m・高さ約12m。
前方部が南方、後円部が北方にあり、墳丘は三段築成となっている。また、生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれて、周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位の異なる珍しいつくりとなっている。
石切劔箭神社、枚岡神社の見学を終え、羽曳野市方向へ戻って、墳丘が復元された心合寺山古墳を見学した。古墳の脇にある「八尾市立しおんじやま古墳学習館」の駐車場は、30分間無料なので、30分間内で見学した。駐車場脇のインターホンで職員を呼び、駐車場に入れてもらう必要がある。
心合寺山古墳。
史跡公園として整備され、墳丘の平坦部には円筒埴輪(レプリカ)が並べて立てられている。復元整備にあたって、後円部中腹にある2本のキリの大木を保存した。
心合寺山古墳。後円部墳頂部。
後円部墳頂部には、東西7.5m、南北11mの隅丸長方形の大きな墓壙があり、その中に東西にならんだ長さの異なる粘土槨の埋葬施設3基が出土した。長さは中央槨7.7m、西槨7.3m、東槨6m。そのうち西槨内の組合せ式木棺から夔鳳(きほう)鏡、甲冑、三葉環頭大刀、鉄剣などのさまざまな副葬品が発掘された。
心合寺山古墳。後円部から前方部へ。
墳丘各段の平坦部に約3,000本の円筒埴輪が並べられていた。並べ方には規則性があり、円筒埴輪、器財埴輪、形象埴輪を規則正しく組み合わせて並べられていた。墳丘部の斜めになった部分は全面に葺石が葺かれていた。
心合寺山古墳。前方部墳頂部の中央の「方形壇」。
東西5.8m、南北8.8mの方形壇の下に木棺1基があり、埋葬後は祀りの場としていたと考えられる。
心合寺山古墳。造り出し。
西側のくびれ部には東西6.3m、南北5.6m以上、高さ1,2m以上の「造り出し」と呼ばれる方壇状の部分があり、さまざまな埴輪が置かれていた祀りの場と考えられている。
水の祭祀場を表した埴輪。心合寺山古墳。
造り出しと後円部の間の谷部から「水の祭祀場を表した埴輪」が出土した。埴輪は塀を表した囲み部と祭殿と考えられる家部からなっており、床には水を導く樋管を表現して、首長が主宰した水の祀りを表現したものとされる。
「木村重成公」石碑。八尾市幸町。
恩智川の南にある木村公園の入口に建つ大きな石碑。木村公園の北側に木村重成の墓があるらしいが見逃した。
木村重成は慶長20年(1615年)大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。
若江の合戦では、東高野街道を南下して道明寺方面へ進出をくわだてる徳川方12万を側面から攻撃してこれに大打撃を与えようと、5月6日の早朝大坂城を出発し、豊臣方の長宗我部隊5000は八尾で徳川方先鋒の藤堂高虎隊5000と、豊臣方木村重成隊4700は若江で徳川方井伊直孝隊3500と激突した。
若江での戦いは玉串川の西方にある小堤上や田間のあぜ道上での小部隊同士の熾烈な戦いであった。互に勝敗を繰り返し、早朝から昼過ぎまで数時間戦われた。豊臣方飯嶋三郎右衛門は徳川方山口重信の従兵と槍を合わせ討取るが、山口重信に槍で突かれ倒れた。木村重成は山口重信にかかり、槍で馬上から突き落とした。山口重信と飯嶋三郎右衛門の二人とも従者にかつがれて退去したが絶命した。
重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたといわれる
この戦いで豊臣方は木村重成・増田盛次をはじめ900余人を失ったが、藤堂隊も重臣6名を含めて兵300余人、井伊隊も武将数人と兵100余人を失った。この日午後6時頃徳川家康・秀忠は枚岡に至り、豊臣方の薄田隼人、木村重成らの首級を実検した。重成の首級の頭髪には香が焚きこめてあったので、家康はその覚悟を感嘆したという逸話が残っている。
このあと、木村公園の北西500mの場所にある若江城跡へ。
若江城跡。東大阪市若江南町。
若江は河内平野のほぼ中央部に位置し、古代から郡衙や寺があり、交通の要所として栄えていた。若江城は永徳2年(1382年)に河内国守護畠山基国の命で築城され河内国守護所とした城で、守護代遊佐氏が代々居城した。
応仁の乱においては、文明9年(1477年)10月若江城の戦いがあり、畠山政長の配下の遊佐長直が守る若江城が畠山義就の攻撃を受けて落城し、畠山義就が入城した。明応6(1497)年、畠山政長の遺児畠山尚順が畠山義就の子基家を駆逐し若江城を奪還した。
永禄3(1560)年、三好長慶は畠山高政方の守る若江城を攻めて陥落させ、飯盛山城に入城した。
永禄11年(1568)9月織田信長は三好三人衆を河内から追い出し、三好義継を河内北半国守護とし、若江城主とした。
天正元年(1573)11月将軍足利義昭が宇治の槙島城で織田信長に敗れ、義昭の妹婿であった義継が匿うが若江城で信長軍に攻められ自刃した。信長は若江城を義継の家来であった池田教正らにまかせた。池田教正はキリシタンとして知られた人物で、若江にクルスとか大臼などの字名が残っている。天正8年(1580)石山本願寺攻めの攻撃拠点としての若江城の役目が終わり、廃城となったと考えられる。
若江城。発掘調査。東大阪市立郷土博物館。
城は東西180m、南北190mの主郭をもつ城で、礎石建物、塼列建物などが見つかっている。写真中央から左側に東西34m、幅17m、深さ3.2mの堀が見える。
若江城。出土品。東大阪市立郷土博物館。
すり鉢、壺、鉄鏃、鉄砲玉、小札。
大聖勝軍寺。本堂。八尾市太子堂。
この地は物部氏の河内支配の中心地であるとともに、滅亡の地でもある。
聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。地元では単に「太子堂」と呼ばれている。
用明天皇2(587)年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。
門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」があり、近くには物部守屋の墓がある。
大聖勝軍寺にある聖徳太子像と四天王像。
清浄泉。柏原市太平寺。
浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地。石神社(いわじんじゃ)の東側にある井戸で、生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水である。地元ではおいしい天然水として古くから親しまれてきた。弘法大師(空海)がこの井戸を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えがある。
清浄泉。
自動車での乗り入れは禁止されているので、手前の神社横駐車場に駐車。無料なのでありがたい。午後遅くなのに地元の人が清掃していた。
このあと、羽曳野市の道の駅へ向かった。