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東大阪市 四条畷市 瓢箪山稲荷神社 瓢箪山古墳 東大阪市立郷土博物館 山畑22号墳 四条畷市立歴史民俗資料館 田原レイマンのキリシタン墓碑

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瓢箪山稲荷神社。瓢箪山古墳(山畑
52号墳)。東大阪市瓢箪山町。
平成28517日(火)。
瓢箪山稲荷神社は日本三稲荷の一つであり、辻占総本社である。祭神は保食神。
創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始して日本全国に知られるようになった。
 
本日は羽曳野市の道の駅から中河内・北河内の史跡を巡り、能勢町の道の駅へ拠点を移す行程。
 
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瓢箪山古墳(山畑
52号墳)。
社殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期の6世紀後半(前半という説も)に築造された双円墳で、山畑古墳群の中でいちばん標高の低い位置にある。南北の墳丘長が約50mの双円墳で、北側は「大塚」、南側は「鬼塚」と呼ばれる。かつて北丘(大塚)の石室内で狐が飼われていた。
 
瓢箪山稲荷神社社を抜けて離合困難な急な坂道の住宅街を登って行くと、市街地を見下ろす高台に東大阪市立郷土博物館がある。
 
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山畑
22号墳。東大阪市立郷土博物館敷地内。東大阪市上四条町。
生駒山の西側には、山を流れ下りる川によって、形成された多くの谷筋がある。谷に挟まれた屋根の南側斜面には、6世紀から7世紀の有力者達を葬った小さな古墳が数多く築かれている。
山畑古墳群は、客坊谷の南側、高さ15mの瓢箪山神社付近から高さ140m前後の位置にあり、円墳をはじめ、方墳や双円墳・上円下方墳などさまざまな形の70基ほどの古墳からなる群集墳である。
山畑22号墳は博物館の駐車場の北側にある双円墳で、墳丘のうち東側の円丘部分は、すでになくなっているが、残存する直径15m、高さ4.5mの西側の墳丘には、横穴式石室が残っている。
にある。石室から土器・装身具・馬具等が出土した。
山畑古墳群の大半は横穴式石室を持ち、副葬品として馬具類が多くの古墳から発見されている。
この辺りは騎馬を飼育していた馬飼部を率いた百済系の渡来氏族・河内首の勢力地(いわゆる「馬飼いの里」)とされ、これらの墳墓はその一族のものと推定される。
 
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河内湾の時代の地理図。東大阪市立郷土博物館。
縄文時代。海進期。BC5000年頃、現在の大阪外環状線付近まで海が広がっていた。
 
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河内潟の時代の地理図。東大阪市立郷土博物館。
弥生時代。縄文時代の終わり頃には旧大和川や生駒山の西側を流れ下りる川の運ぶ土砂がどんどんたまりつづけ、「河内潟」と呼ばれる干潟ができあがった。弥生時代の人々は、こうした干潟のまわりや旧大和川沿いの稲作に適した湿地の近くで暮らしていた。
 
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河内湖の時代の地理図。東大阪市立郷土博物館。
弥生後期~古墳時代。
 
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河内の史跡地図。四条畷市立歴史民俗資料館。             (拡大可)
四条畷市立歴史民俗資料館はJR片町線(学研都市線)の線路脇にある。
入館無料。受付で館長を紹介され、展示を解説してくれた。頂いた特別展の図録「田原城とその菩提寺」には、若江城、飯盛山城、芥川山城など周辺の城が紹介されている。
 
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弥生時代のムラ。
 
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生贄にされた馬の首。四条畷市立歴史民俗資料館。奈良井遺跡(市民総合センター)出土。
古墳時代中期~後期の祭祀場をとりまく溝から出土した。遺跡は馬を生贄にする祭祀場であり、祭祀に使った土器類をはじめ、馬が7頭分以上出土した。
 
古墳時代の四條畷市は河内湖のほとりにあった。馬は古墳時代の中頃に朝鮮半島から準構造船に乗って難波の津から河内湖に入り、四條畷で馬をおろした。馬は渡来人によって飼育された。四條畷市は西に湖、東に生駒山系の山並みにはさまれた場所にあり、山系からはいく筋もの川が流れ出していて、牧場の柵の役目を果たした。起伏に富んだ地形は馬を訓練するのには最適で、湖や川辺には馬が好む草がたくさん生えており、自然環境は馬を飼育するのに最適であった。
 
輸入された馬は一隻に1~2頭しか乗せることができなかった。当時の馬は蒙古系の小さな馬で、毛足が長く、体高が120cmほどであった。鎌田遺跡に着いた馬は大切に育てられた。馬の導入には中央政権の要請があったことが推測できる。鎌田遺跡での牧の運営が30年以上続いたのち、奈良井遺跡で本格的な馬の飼育が始まり、最盛期を迎え、専用の馬の祭祀場もできた。儀礼に欠かせない聖水を汲む井戸も備えた祭祀場では馬の頭を神様に捧げるという儀式が繰り返しおこなわれた。

馬飼いの長だった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)は渡来系集団の結束と情報能力にすぐれ、継体天皇と密接な関係を築きあげた。継体天皇は荒籠の導きによって枚方市の楠葉で天皇に即位し、淀川周辺に宮を次々と移して淀川の水運を掌握、淀川・琵琶湖の水運によって北陸地方、瀬戸内地方、東国へと勢力をのばした。
 
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田原城主・田原レイマンのキリシタン墓碑。四条畷市立歴史民俗資料館。
平成14年に田原城主一族の菩提寺千光寺跡の調査発掘のさい、千光寺跡の土塀の内側にあたる場所から「天正九年(1581)辛巳(かのとみ)礼幡(レイマン)八月七日」の銘が刻まれたキリシタン墓碑が出土した。このキリシタン墓碑は日本最古のものとされる。
 
三好長慶が天下を狙って近畿一円に勢力をのばしたのが永禄2年(1559)。翌年には飯盛山城城主となり、大和と河内の両国の国境に位置する田原城はその支城として大和方面への防衛拠点となった。永禄6年(1563)、飯盛山城でキリスト教が布教され、河内の主だった武士73名が洗礼を受け、その後、河内キリシタンは繁栄をきわめた。天正2年(1574)、田原城主も洗礼名レイマン(礼幡)として洗礼を受けた。天正3年には田原レイマンと河内の主だったキリシタン武士が京都にいる織田信長に挨拶に赴いている。
 
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千光寺跡からの出土状況。四条畷市立歴史民俗資料館。
田原城主の田原氏は南北朝時代の頃から田原の地を治めていた土豪であったと思われる。
田原レイマンが亡くなった頃は四條畷で最もキリスト教が繁栄し住民の全てがキリシタンだったといわれている。フロイス日本史に記述されている人物と一致するのはとても珍しいことで、キリシタン史に重要な資料を加えることになった。
城主のレイマンは千光寺に手厚く葬られていたと思われるが、キリスト教が禁止されると墓碑の十字架が人の目にはばかられ、元の位置から墓碑だけを移動し土塀の内側に隠したと考えられている。
 
このあと、清滝街道を登って奈良県に至り、磐船街道を下って再び大阪府交野市方面へ向かった。

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