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交野市 枚方市 島本町 磐船神社 私部城 禁野車塚古墳 百済寺跡 継体天皇楠葉宮跡伝承地 水無瀬神宮 離宮の水 桜井駅跡

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御神体「天の磐船」。磐船神社。交野市私市。
平成28517日(火)。
交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12m・幅約18mの舟形巨岩を御神体としている。本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。
 
「先代旧辞本紀」には、物部氏の祖である饒速日命が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承がある。饒速日命の末裔として交野に勢力を保っていた物部肩野連氏一族が降臨伝説とこの巨岩を結び付けたといわれている。中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には神仏習合の影響が色濃く残されている。
 
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磐船神社の岩窟巡り。入口。
天野川に沿ってできた岩窟は古来より修験道の行場として知られ、岩窟巡りのルート上には多数の巨石が形作る岩窟・洞窟・狭い穴が連続している。有料。
 
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私部城(きさべじょう)。別名交野城。堀跡。交野市私部。
私部城(交野城)は、大阪府の北東部、交野市の私部に位置する平城である。現在も私部には、本郭をはじめとして戦国期の「土の城」の姿が断片的ながらも維持されている。
河内国上郡守護代安見宗房(直政)と、文献で確認できる最初の交野城主安見右近が別人物であることが判明し、従来の説では、私部城は河内国守護であった畠山氏配下の安見氏の居城とされてきたが、近年は別の説が有力になっている。
 
北河内地域は、三好氏配下の山城が多く立地していた。織田信長は大坂進出にあたり、山地部の城郭を中心とした三好三人衆などの勢力に対して、平野部の寺内や拠点的城郭をその配下におき、大坂の掌握を実現していった。
 
交野城は永禄8年(1565年)頃に松永久秀の指示により、安見氏の一族である安見右近が築城したとされる。安見右近と松永久秀は織田信長の配下に就くが、その最中の元亀元年(1570)に交野城は完全に完成したようである。
元亀2(1571)、松永久秀は突如として信長を裏切った。そうとは知らない安見右近は久秀の策略にはまり、多聞城に呼ばれ、そこで自刃して果てた。自刃後すぐに、久秀、久通父子は交野城に向け出陣、交野城を攻めるが、なんとかこれを持ちこたえた。翌年にも松永久秀は交野城を攻撃するが織田信長配下の柴田勝家、佐久間信盛らが城の救援に駆けつけ、これを退けているが、天正元年(1573年)に筒井順慶によって攻め落とされている。
天正9年の信長の馬揃において、安見右近死後の交野城主である安見新七郎が、「取次者」として召集されており、安見氏が織田政権の末期まで、北河内の領主層を束ねる要職にあったとみられている。
 
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交野城。二の丸跡。現在は駐車場となっている。
 
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禁野車塚古墳。国史跡。枚方市宮之阪。
淀川南岸、生駒山脈の北西山麓に延びる枚方丘陵の川に挟まれた住宅地に所在する。淀川流域南岸に残る数少ない古墳の一つで、淀川が瀬戸内から畿内の中心部にいたる主要交通路の一つと推定されることから、地域の歴史を知る遺構としてその意義は高いとされる。
 
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禁野車塚古墳。
墳丘の長さ約120mで前方部を西に向け、前方部は平らで低いばち形で、後円部が高くなっており、周濠その他の施設はない。墳丘は2段築成で、すべて盛り土があること、葺石は後円部南側下段に、円筒埴輪や形象埴輪は後円部裾野断面に多く認められる。
主体部は不明だが、後円部頂に板石片があり、竪穴式石室と推定される。築造時期は墳形、内部構造、埴輪片などから古墳時代前期末、4世紀と考えられてきたが、2008年の調査により、墳形の特徴が奈良の箸墓古墳と共通し、相似墳とする見解があらわれた。被葬者については、大和政権と関わりの強い人物の可能性が高くなっている。
 
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百済寺跡。西塔跡。枚方市中宮西之町。国特別史跡。
奈良時代の寺院跡。滅亡した百済から亡命した王族の子孫、百済王敬福(くだらのこにきしのきょうふく)が王家の氏寺として天平年間(729749年)、あるいは8世紀後半に創建したと伝えられる。
百済王氏はもと摂津国百済郡を拠点としていたが、百済王敬福が749年、陸奥国で発見した黄金を聖武天皇へ献上し、陸奥守から河内守へ異例の昇進を果たし、それを機に河内国交野の地を次の拠点にしたものとみられる。
桓武天皇は百済王氏を「朕の外戚」とよび、交野への行幸を頻繁におこなった。百済王氏は9世紀中頃には史料から姿を消し、百済寺も平安時代中期に焼失し、再建されなかったとみられる。
 
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楠葉宮跡の杜。継体天皇楠葉宮跡伝承地。枚方市楠葉丘。
記紀によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方を統治していた。日本書紀によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大伴金村、物部麁鹿火らが協議し、越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とし、5年にわたり宮を営んだとされる。
樟葉宮跡の杜は交野天神社の境内にあり、石灯籠が並ぶ参道を進むと拝殿の向こうに桧皮葺の交野天神社本殿と末社八幡神社本殿が見え、拝殿右側の杜の奥には貴船神社が鎮座する小丘がある。
 
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樟葉宮跡。貴船神社が鎮座する小丘が宮跡とされる。
 
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樟葉宮跡顕彰碑。小丘の麓には顕彰碑が立っている。
 
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水無瀬神宮。拝殿。三島郡島本町。旧社格は官幣大社。
後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。
後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立された。承久の乱で隠岐に流され死去した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240年)、水無瀬信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。
 
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水無瀬神宮。茶室(燈心亭)。重文。
 後水尾天皇より下賜されたと伝えられる江戸初期の数奇屋風書院。桁行7.6m、梁間5.2m、一重、寄棟造、茅葺、東面庇付、こけら葺。内部は三畳台目の席。格天井にヨシなどの灯心の材料を用いたことから名付けられた。江戸初期における公家好みの代表的な茶室として知られる。
内部見学は団体の事前予約制といわれ、外観をわずかに覗いた。
 
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名水百選「離宮の水」。水無瀬神宮境内。
古くから茶の湯の水として利用され、今でも、サントリーウイスキー山崎蒸留所の仕込み水として利用されている。飲用可。取水時間は午前6時から午後5時まで。
 
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桜井駅跡。三島郡島本町桜井。国史跡。
古代律令制度下の駅家の跡。京都から西宮へ出る西国街道に面している。
この駅跡は、「楠公父子訣別之所」として知られ、1336年(延元元年・建武3年)、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の楠木正行を河内国に帰らせた場所と伝えられている。
「青葉茂れる桜井の」と唱歌に歌われたように、駅跡は森の中にあって静謐な雰囲気であったが、2008年に東海道本線(JR京都線)島本駅がすぐ傍に開業した。
父子の姿を彫った石像「滅私奉公」の揮毫は近衛文麿。
 
16時過ぎになり、能勢町の道の駅へ向かった。

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