能勢頼次の銅像。能勢妙見堂。参道鳥居。能勢町野間中。
平成28年5月18日(水)。
能勢妙見堂は日蓮宗の霊場で、妙見山の山頂付近にある。山頂には行基の建立と伝える大空寺があった。鎌倉時代に入ると源満仲を祖とする能勢氏が領主となりその地に妙見菩薩を祀ったとされる。その後、江戸時代初期に領主能勢頼次の帰依を受けた日乾上人(日蓮宗身延山久遠寺21世)の手によって新たな北辰妙見菩薩像が彫られ、大空寺趾に建立した仏堂に祀ったのが現在の能勢妙見山である。
能勢頼次の兄能勢頼通は上洛した織田信長に従わなかったため、隣接の山下城主である塩川国満に攻められ、天正8年(1580)頼通は塩川勢に謀殺された。塩川勢は能勢へ攻め寄せ、後継となった頼次の居城丸山城を落としたため、翌年頼次は妙見山に為楽山城を築いて居城とした。
天正10年の本能寺の変で、頼次は明智光秀方についたため。豊臣秀吉に領地を没収された。頼次は、三宅勘十郎と改名し、備前岡山の妙勝寺という日蓮宗の寺に隠れた。
その後、徳川家康に召し抱えられ、関ヶ原の戦い後、能勢郡地黄3000石余を与えられて旧領回復を果たした。
能勢氏は地黄陣屋を拠点とし、4000石の交代寄合として幕末に至った。勝小吉と勝海舟親子は能勢氏の江戸本所の下屋敷に祀られた北辰妙見大菩薩の熱烈な信者であった。
幟にある紋の矢筈十文字は能勢氏の家紋である。
頂上駐車場は最近有料となった。
妙見山。山頂の4等三角点。標高660.1m。
参道の途中から分岐する道を登った丘にある。三角点の所在地は豊能町。
信者会館付近からの眺望。六甲方面。
能勢妙見堂。本堂。
慶長10年(1605)能勢頼次により草創。天明7年(1787)能勢頼直により再建。明治28年改修。内陣に北辰妙見大菩薩が祀られている。
能勢妙見堂。山上裏手。
高山右近・志野夫妻石像。右近の郷・高山コミュニティセンター。豊能町高山。
高山右近(1552~1615)。キリシタン大名。高山飛騨守友照の嫡男で、友祥、長房と称し、右近允を名のる。摂津高山に生まれた。飛騨守は松永久秀の配下となったため、6歳から大和の沢城(奈良県宇陀市)に住み、永禄7(1564)年12歳のときに父(霊名ダリオ)の影響で、洗礼を受ける。霊名ジュスト。
高山父子は和田惟政に従い摂津国芥川城を任されたが、のちに高槻城主となる。1573年(天正1)右近は荒木村重の下に高槻城を安堵された。78年村重が織田信長に叛した際、信長はパードレらを軟禁、右近に帰順を迫った。信長のもとに赴いたが、かえって高槻領を安堵され、教会も平穏を保つことができた。
本能寺の変後は豊臣秀吉に従い各地に転戦、武功をたて、85年明石6万石に封ぜられた。その間、高槻はじめ安土、京都、大坂などの教会を援助。領内にセミナリオ(神学校)や慈善事業をおこすなど、キリシタンの指導的人物として仰がれた。小西行長、黒田孝高父子などキリシタン大名の過半は、直接間接彼が信仰に導いたものである。
1587年7月、伴天連追放令に伴い、キリシタンの代表的人物として除封されたが、行長ついで前田利家の保護を受け、加賀藩の客老となり藩政にも参与した。千利休門下の茶人としても知られ、南坊、等伯と号した。
1614年(慶長19)幕府の禁教発令に伴いマニラに追放されたが、40日ほどで熱病に冒され、15年2月3日(慶長20年正月6日)殉教の死を遂げた。
2016年1月ローマ法王庁から「福者」に認定された。
能勢妙見堂から高槻市内へ移動する途中、偶然に右近の郷の案内板を見つけ、旧高山小学校を活用した施設に立ち寄った。周辺の高山右近に関する史跡の案内など豊富な資料を入手できた。
高山右近生誕地の碑。豊能町高山。
右近の郷から西の西方寺を過ぎた八幡神社の麓に石碑が立てられた。高山氏は南北朝時代からこの地の荘園の代官職にあり、戦国時代には在地領主として成長した。付近には殿所、侍所、弓場などの地名が残っている。
フロイスの日本史によれば、高山にヴレラ神父やロレンソ修道士も訪れ、もとは高山家の持仏堂であった現在の西方寺の敷地内に、ブレラ神父はセント・ジョアン(自庵)と呼んだ小聖堂(オラトリオ)を造り、右近の祖母ジョアンに洗礼を施したという。
右近の郷の北に、隠れキリシタンであった高山(北中)マリアの墓、4基があり、寛延4(1751)年などの刻銘が残っている。府道に駐車スペースがなかったので見学はしなかった。
このあと、高槻市立しろあと歴史館へ向かった。