模擬石垣。高槻市立しろあと歴史館。高槻市城内町。
平成28年5月18日(水)。
しろあと歴史館は高槻城三の丸跡の一角に建てられている。
高槻城は平城で、安土桃山時代に高山右近居城。入江城とも呼ばれる。平安時代に築城されたといわれるが、室町時代は足利尊氏の命でこの地を領した入江氏の居城だった。1569年(永禄12)に入江氏は織田信長に滅ぼされ、和田惟政に与えられた。1571年(元亀2)白井河原の合戦で惟政は戦死し、子の惟長が継いだが、配下の高山右近父子に城を追われ、高山氏が城主となった。
キリシタン大名として有名な高山右近は1585年(天正13)に播磨・船上城に転封となり、右近のあと、新庄・青山・内藤・米沢・喜多・彦阪・山田・土岐・松平・岡部と、城主はめまぐるしく交代した。1649年(慶安2)に永井直清が入城、以来約220年、永井氏が在城して明治維新にいたった。かつては東西700m、南北800mの城域に3層の天守をはじめ各曲輪があったが、破壊された。
高槻城本丸南西部高石垣の構造。江戸時代初めの築城技術。
高槻城は海抜10m以下の扇状地に築かれ、地下深くまで粘土や砂の軟弱な地盤が続いている。sこで、石垣を築く穴の底に、太い丸太と長大なマツ材で梯子胴木を組んで川原石で固め、石垣石が不等沈下しないように強固な人工地盤を造っていた。
高槻城本丸南西部高石垣の構造。
高山右近書状。高槻市立しろあと歴史館。
高山右近書状。
高山右近書状。
高槻城三の丸跡出土キリシタン墓地。高槻市立しろあと歴史館。
二支十字が墨書された木棺の蓋板。
二支十字が墨書された木棺の蓋板。
ロザリオ。高槻市立しろあと歴史館。
ロザリオ。
くらわんか舟の茶碗。高槻市立しろあと歴史館。
高山右近天主教会堂跡。高槻市大手町。
高山右近は、天正元年(1573)父・飛騨守とともに高槻城に入り、城の拡張などを行う一方、キリスト教を厚く保護し、家臣や領民へ布教を進め、一時高槻は、京都・堺と並ぶ近畿でのキリスト教布教の中心であった。
その拠点となったのが天正2年(1574)、城内の現・野見神社付近に飛騨守が建てた天主教会堂で、フロイスの記録によれば、大きな木造の教会堂と宣教師の宿舎を備え、池のある美しい庭園の一角には大十字架が建てられていたという。
神社東方の発掘調査で、教会に隣接していたキリシタン墓地が発見された。
1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンであった。
「彼(飛騨守)はそこで毎年、いろいろなことの世話にあたる四人の教会の執事を任命し、彼らは異教徒改宗のことに係わったり、貧者を訪問したり、告白や死者の葬儀のことで司祭たちに知らせたり、各地からそこに来た客たちをもてなしたりした。しかし彼自身もまたこの教会委員の職を帯び、他の委員たちに率先し、自ら範を垂れて彼らを導いた。・・・ある戦いで大勢の寄る辺ない寡婦や孤児が残された。ダリオは、次から次へと全員を世話し終えるまで休むことがなかった。その世話ぶりはいとも熱心で幼い者はまるで彼の子供のようであり、婦人たちは彼の近親者のようであった。それゆえ、その地で人々は皆、彼を自分の父のように見なした。・・・その地で二人の貧民が死亡した。ダリオはさっそく一台の棺を製作させ、真中に白い十字を付した黒緞子の棺布でおおい、ダリオと城主であるその息子右近殿は、棺を担う役を自ら引き受けた」(フロイス「日本史」)。
カトリック高槻教会(高山右近記念聖堂)。高槻市野見町。
高いドーム状の屋根が印象的な建物は、キリシタン大名ユスト高山右近がその生涯を終えた地、マニラ市郊外のかつての日本人町であったアンティポロにある聖母大聖堂に模して設計された。
1954年現在地に仮聖堂が建てられ、カトリック高槻教会が創立された。そして高山右近記念聖堂が1961年に着工され、翌1962年3月に完成、4月に献堂式が挙行された。
高山右近大理石石像。
イタリアの彫刻家ニコラ・アルギーニの作品で、ローマのクラレチアンヌ会から寄贈された。
高山右近顕彰碑。1949年現在の商工会議所の場所に建立され、除幕式がローマ法王ピオ12世特使オルテノス司教によって行われ、後に教会に移設された。
このあと芥川山城の見学に向かった。