伊居太(いけだ)神社。神門と社殿。池田市綾羽。
平成28年5月19日(木)。
池田市に現在する最古の神社とされており、応神天皇、仁徳天皇、穴織(あやはとり)大明神を祀っている。
池田駅側にある呉服神社が「下の宮」とされるのに対し、五月山山麓にある伊居太神社は「上の宮」とされ、互いの関係は深い。
日本書記には、「応神天皇の時代、阿知使主(あちのおみ)を呉の国に派遣して縫工女を求めた。阿知使主は4年後、呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4人の工女を伴って帰国し、宗像の神に兄媛を献上し、3人を連れて住吉津・武庫津に戻ってきた」とある。
池田は渡来系氏族秦氏の拠点の一つで、「和名抄」では当地は豊嶋郡秦上郷・秦下郷であったので、土師氏以前には秦氏が住んでおり開拓に従事していたのであろう。後期古墳は渡来系文化の痕跡をとどめているとされる。阿知使主に始まる東漢氏(やまとのあやし)に連なる坂上氏の一族土師氏が平安時代中期に土着し、呉庭(くれば)と名付けた。子孫が後白河法皇の法華堂に荘園として寄進し、呉庭(くれは)荘とよばれた。
こうした背景により、中央の伝承である阿知使主と縫工女の伝承が池田にもたらされたとみられる。
中世の呉庭荘は土師氏が祭政一致の支配を行ったが、室町時代中期には土師氏の系統が絶え、南北朝時代以降台頭した国人領主池田氏の支配下に入り、この地は池田と称されるようになった。
池田氏は式内社の伊居太神社を川辺郡から移して秦上社とし、さらに秦下社(呉服神社)を建てて、穴織媛・呉服媛を祀った。
五月山緑地駐車場から徒歩で呉服(くれは)神社など市内見学したが、駐車場からすぐ西に伊居太神社がある。
呉服座跡石碑。池田市西本町。
猪名川の左岸、呉服橋の南に立つ。現在は愛知県の明治村に移築され重文となっている芝居小屋の跡地。呉服座は明治25年(1892)に建設され、江戸時代以来の伝統建築の名残を留めた芝居小屋であった。ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられていた。
呉服神社。鳥居から神社までの参道。池田市室町。
呉服大明神、仁徳天皇を祀る。池田駅南側にあり、秦下社と称す。
猪名川に架かる呉服橋と絹延橋の中間地点にあった猪名の港(唐船ケ渕)に機殿(はたどの)を建て、呉服媛を迎えたという。唐船ケ渕は中国からの船が来航した湊であったと伝わる。
呉服神社。拝殿。昭和44年(1969年)に建て替えられた。
呉服神社。謡曲「呉服」の発祥地。
池田呉服座。池田市栄本町。
江戸時代に建てられた芝居小屋・呉服座の優れた建築様式を一部再現してできた大衆演劇場で、呉服座跡からは300mほど市内寄りにある。ロビーを除いたら客がいた。
旧加島銀行池田支店。池田市栄本町。国登録有形文化財。
NHKの連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデルである広岡浅子が設立した旧加島銀行の池田支店の建物。現在はインテリアカワムラ。
大正7(1918)年の建築で、木造2階建、鉄板葺、建築面積330㎡。池田市の中心街にあって,能勢街道に面して建つ。
設計は辰野片岡建築事務所で、東京駅丸の内駅舎の設計などで知られる辰野金吾が関わっている。木造モルタル造りであるが,石と赤レンガの外観により、重厚なレンガ造り風に見せている。窓上や柱型上部にやや抽象化された装飾を設け,正面西側部分はマンサード屋根の破風を設け,塔屋風に見せている。
内部は店の人が親切に説明してくれる。
銀行当時から残る大金庫。
大金庫の銘板。
銀行当時から残るカウンター。表側。
銀行当時から残るカウンター。表側。
床の装飾タイル。
五月山緑地駐車場へ戻り、池田茶臼山古墳のある茶臼山公園へ向かった。
池田茶臼山古墳。池田市五月丘。大阪府指定史跡。
五月山丘陵上に築造された前方後円墳。古墳時代前期4世紀中頃の築造で、大阪府北西部を流れる猪名川左岸で最も早く築造された首長墳の一つと考えられる。
墳形は前方部が発達しない柄鏡式で、前方部を南東方に向ける。墳丘長は57m。墳丘表面では葺石・埴輪列が検出されている。
主体部の埋葬施設は、後円部における竪穴式石室1基と、後円部・前方部境における埴輪円筒棺1基、後円部北側における埴輪円筒棺1基の計3基。竪穴式石室は盗掘に遭っているが、発掘調査において副葬品数点が検出されている。
池田茶臼山古墳。後円部墳頂。
石碑横にある竪穴式石室は後円部中央に位置する。石室主軸は墳丘主軸と直交し、長さは6.35mを測る。底部は粘土棺床とし、石室内面には赤色顔料が塗られていた。鉄剣、ガラス製玉、碧玉製釧などが出土した。
墳頂から南方を見渡すと、西摂平野が一望でき、支配者としての墓として相応しい立地である。
五月丘古墳。横穴式石室。復元。池田市五月丘。池田市立歴史民俗資料館。
五月丘古墳は古墳時代末期に造られたと見られる。1955年ごろに全長3.5m、幅0.9mの横穴式石室が発見された。発掘調査により、石室内部から長さ195cm、幅46cmの陶棺が発見された。
調査の結果、直径約8m小円墳であることが推定された。被葬者はこの辺りを統治していた渡来人の秦氏の可能性が高い。
このあと、茨木市千提寺の隠れキリシタンの里へ向かった。