茨木市立キリシタン遺物史料館。駐車場。東(ひがし)家。茨木市千提寺。
平成28年5月19日(木)。
茨木市立キリシタン遺物史料館は、隠れキリシタンの里として知られる千提寺地区にある。昨日、高山右近関連の史跡を見学して、急遽見学することにした。
茨木の山地部の千提寺や下音羽は、キリシタン大名として有名な高槻城主・高山右近の領地であった影響で、当時キリスト教信者となった領民が多く、キリスト教禁制後も隠れキリシタンとなり、山奥のこの地で信仰を密かに守りつづけた人々がいた。
1919年にキリシタン研究家の藤波大超が、この地が隠れキリシタンの里であることを突き止め、それをきっかけに付近の多くの家から隠れキリシタン遺物が再発見された。当館はこれらの資料を広く公開することを目的に、地元千提寺地区から土地の提供を受け、茨木市によって建設された施設である。
入館は無料だが、内部撮影は禁止。
「聖フランシスコ・ザビエル像」。神戸市立博物館蔵。
歴史教科書にほぼ必ず掲載されている有名な重文「聖フランシスコ・ザビエル像」は、禁教により破却された数多くの聖画のうち、秘匿されて伝世した数少ない江戸初期の洋風画で、駐車場の先にある民家の東家から発見された。
その東家の西側にこの地区の隠れキリシタンたちが各家に秘蔵していた遺物を展示するために史料館が建てられた。
東家の南西角。
この坂道を数十m登った西側に史料館がある。キリシタンの里の案内図が立っているが、その横には小さな標石があり「北摂キリシタン遺物発見最初の家」と刻まれている。
茨木市立キリシタン遺物史料館。
小さな博物館で展示資料も少ない。ロビーにキリシタン史跡地区の模型がある。見学者はたまたま5人ほどおり、20分ほどのビデオを観賞させてもらった。このビデオを見なければ、この地区の価値は分からない。
まず、この千提寺地区のキリシタン遺物発見者である藤波大超氏のインタビューがある。
大正8(1919)年に藤波大超氏が最後の隠れキリシタンであった東イマさんの息子東藤次郎を説得して、慶長8(1603)年、上野マリアと刻銘されたキリシタン墓碑を発見した。翌9年に東家の母屋の屋根裏に吊り下げてあった「開けずの櫃」から、ザビエル像をはじめ、マリア十五玄義図、天使の銅版画、マリア像、キリスト磔刑像、メダイ、苦行用の鞭などが発見された。その頃はイマさんも存命で、藤波氏に「開けずの櫃」の中身を見せようとした息子藤次郎に「見せてくれるな、見せたらお縄にかかるから」と言ったのだそうだ。
明治初頭のイマさんの踏絵の記憶では、イマさんは踏むのが「もったいない」ので、絵の手前でわざと転び許してもらったことがあるという。
東家での発見を契機に、昭和5年までの間に、同じ千提寺の中谷3家、および2㎞程離れた下音羽地区の家からも、さまざまな遺物や墓碑が見つかり、イマさんのほか、中谷イトさん、中谷ミワさんといった80歳を超える老女たちが、オラショを伝えていることも分かった。
禁教が解かれて半世紀も経ってからのこの発見は、各方面に大きな衝撃を与えるもので、新村出は京都帝国大学からいち早く現地を訪れ「摂津高槻在東氏所蔵の吉利支丹遺物」という報告書を作成している。1920年にはローマ教皇庁から使節が千提寺地区を訪れ、「日本の聖地」といわれるようになったという。
重文「聖フランシスコ・ザビエル像」は、神戸市立博物館の前身である南蛮美術館を昭和15(1940)年に設立した神戸の資産家で南蛮美術のコレクターだった池長孟によって、昭和10(1935)年に買い求められた。
池長は1か月間毎日東家を訪問し、購入を口説いた。東藤次郎は、自分は信仰を持たないが、先祖が命をかけて伝えてきたものは守り続けたいと断り続け、池永を諦めさせるため破格な売値を提示した。しかし、その額を池長が用意したため、やむなく手放すことになったのである。
池長は私財を投じて美術館を設立し、南蛮美術の貴重なコレクションを一般に公開した。戦後、財産税支払いのためにコレクションが散逸することを危惧し、神戸市にすべてを寄贈した。
近年まで近くの山にあったキリシタン墓碑は、その場所が新名神高速道路の建設予定地になったため、現在は資料館内に移設されている。工事完成後は代替地に置かれるという。
キリシタン墓碑のある下音羽の高雲寺はさらに北の山間部にある。
高雲寺。茨木市下音羽。
見山郵便局西の裏山に高運寺がある。県道との三差路に来て、このあたりだと思うが案内板はなく、場所が分からない。郵便局に入り、局員に高雲寺の場所を尋ねると、外に出て、この裏山だと教えてくれた。
しかし、駐車スペースがない。すぐ西に駐在所があったので、警官にどこか駐車する場所がないか尋ねると、敷地に駐車してもよいと言われた。
急な石段を登ると高雲寺があり、登ったところにキリシタン墓碑がある。
高雲寺。キリシタン墓碑。
曹洞宗。本堂右手に、大小2基の蒲鉾型のキリシタン墓碑が保存されている。大きいほうは「手水鉢の台石」に、小さいほうは「くつ脱ぎ石」に使われていたものが、キリシタン墓碑であると確認された。日付は慶長15年10月11日と慶長18年5月24日である。千提寺・下音羽の隠れキリシタンたちはこの高雲寺を檀那寺としていた。
高雲寺。キリシタン墓碑。説明板。
銭原は付近の地区名。
安為神社。茨木市安威。
式内社。天児屋根命を祀る。阿武山山麓を流れる安威川流域には、古代中臣氏につながる中臣藍連や中臣太田連らの氏族の村々があった。藍連という姓はこの地で藍を栽培したことに由来すると考えられる。地名の安威・神社名の阿為ともに染料となる藍を意味する。継体天皇は三島郡藍野の藍野陵に葬られた。藤原鎌足が隠居した三島の別業は当地で、安威の北約1.5kmの阿武山頂にある阿武山古墳は、鎌足の墓とされる。
安為神社裏山一帯には20数基の群集墳が分布する安威古墳群がある。
このあと、吹田市方面へ向かった。