円珠庵。大阪市天王寺区空清町。国史跡。
平成28年5月20日(金)。
JR玉造駅から南へ、真田山と呼ばれる一帯の一番高い場所に円珠庵がある。円珠庵の前を東西に延びる坂は三韓坂とよばれ、奈良時代玉造にあった三韓館に通じる道であった。その脇に1本のエノキの霊木があり、人々の信仰を集めていた。
大坂冬の陣の時、真田信繁(幸村)は、南は高津高校のあたり、西の端が円珠庵、東にある三光神社まで続く、大きくて広い姫山という丘に真田丸を築き、鎌八幡の霊木も陣所の中に取り込まれた。
真田幸村は、霊木の信仰を伝え聞いてエノキに「鎌八幡大菩薩」と唄して鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに戦勝をあげたと伝承されている。
江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。山門近くのエノキの霊木には多くの鎌が打ち込まれて赤錆びている。
元禄3(1690)年に国文学者で高僧の契沖が鎌八幡の境内に居住し、円珠庵と称した。境内には契沖の墓がある。
境内撮影禁止の表示があり、敷居が高そうなので入場しなかった。絵馬堂の左側に打ち込まれた鎌がわずかに見えていた。
真田幸村と大坂の陣に関する簡単なリーフレット所載の寺社などと地図を見て見学した。駐車はタイムズのコインパーキングを利用し、徒歩で廻った。
三光神社。真田幸村銅像と真田の抜け穴。大阪市天王寺区玉造本町。
神社は、大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し、かつては姫山神社と称した。創建は18代反正天皇の頃と伝えられる。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。
境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。千田嘉博氏によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。
真田山小学校の石垣。小学校の角は高低差がはっきりとしており、東側が低くなっている。真田丸の東側の中央に相当するようだ。テレビで砦の高さを象徴する場所として紹介されていた。
ここから西北の心眼寺・明星高校方面へ向かう。
心眼寺坂。大阪市天王寺区餌差町。
西が明星高校。東に寺院群が並ぶ。北に低い坂道となっている。
真田丸顕彰碑。大阪市天王寺区餌差町。
真田丸が大阪明星学園の場所にあったのは、ほぼ間違いないということで2016年2月、同学園に「真田丸顕彰碑」が設置された。
心眼寺。大阪市天王寺区餌差町。
元和8年(1622)、白牟上人が真田幸村・大助父子の冥福を祈って、真田丸の跡地に創建したといわれている。門前に「真田幸村出丸城跡」の石碑が立つ。
真田信繁墓碑。心眼寺。
信繁四百回忌に当たる2014年心眼寺に墓碑が建立された。墓には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と記されている。
安居神社。大阪市天王寺区逢阪。
大坂夏の陣で真田信繁が当神社境内で戦死したと伝えられる。
慶長20年の大坂夏の陣の最後の局面において、真田信繁は5月6日の道明寺の戦いののち退却し、天王寺口で陣容を整えた。翌7日正午過ぎ、信繁率いる真田隊3500の軍勢は茶臼山から出撃、越前松平家の松平忠直隊15000の大軍を突破、後方の家康本陣に向かって突撃。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙、家康本陣に突入した。
家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。しかし数度に渡る突撃で部隊は消耗し、真田勢は敗れ、兵力で勝る徳川勢に押し返された。
しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居神社境内の一本松の下で休息しているところを、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「儂の首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。
真田幸村公之像。安居神社。
安居神社。境内。真田幸村戦死跡之碑。
幸村が休息していたといわれる一本松の二代目「さなだ松」がある。
四天王寺方面へ戻り、交差点から南西徒歩5分余りで茶臼山の麓に着いた。
茶臼山。頂上。大阪市天王寺区茶臼山町。
天王寺公園内にある茶臼山は標高26mの山である。5世紀の前方後円形古墳とされる説があったが、調査の結果では古墳の築造と同じ工法で盛土されていることが分かったほかは、古墳とする証拠は見つからなかった。
茶臼山は慶長19年の大坂冬の陣では、徳川家康の本陣となり、翌慶長20年5月には真田幸村の本陣として茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)が繰り広げられた。
茶臼山。南麓。
天王寺公園の北東隅にあたる。
茶臼山。西側。
池は河底池といい、788年(延暦7年)和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるために上町台地を開削した際、古墳の濠を利用した名残が河底池だと伝わる。
13時30分過ぎになり、今回の見学を終了、道の駅平群経由で翌日名古屋の自宅へ帰った。