三河国分尼寺跡。中門及び回廊(復元)。愛知県豊川市八幡町。国史跡。
2016年12月18日(日)。
豊川稲荷へ久し振りにマイカーで参拝した帰りに、10年ほど前から考えていた三河国分尼寺跡などを見学した。周辺には三河国府跡、国分寺跡があり、3点セットが確定されている稀な地域である。また三河地区最大級の前方後円墳の船山1号墳が近くにあり、古代三河国の中心地がこの地区にあったことは実証されている。
名古屋の自宅から名鉄やJRで豊川稲荷へ行く方法もある。JRの名古屋市内発・豊橋地区往復きっぷは1540円と安いが、ガソリン代は950円程度で済んだ。見学は徒歩のルートも案内されているが、近接しているとはいえ、自動車が実際的。自転車での周遊にも適している。
三河国分尼寺跡史跡公園は2005年に中門及び回廊の一部を復元して整備され、併せてガイダンス施設として「三河天平の里資料館」が開設された。資料館は入場無料。国府・国分寺・国分尼寺・船山1号墳の出土品が展示されている。
まず、資料館を見学すると、東京から来たという男性が館を出るところだった。ほかに数人の見学客がいた。男性職員に資料の説明を受けて、20分ほど雑談したところ、「穂の国」の話から故S氏という共通の知人がいることが分かった。
中門及び回廊の復元費用は3億2千万円とのこと。「よみがえる古代三河国の歴史舞台」という豊川市教委の発掘調査史の概説と、三河国分寺のパンフレットをもらった。愛知県や名古屋市の文化財・博物館行政は遅れていると話すと、名古屋市教委は遺跡発掘を民間外注にしたという。それぐらいなら、発掘せずに埋設したまま、数十年後まで保存したほうがいいという意見だったので、私は文化財を観光資源に結びつけたり、一般市民への啓蒙のためには、発掘とその成果の見える化を進めなければ、文化財の破壊は停まらないと返した。三河国分寺用地の買収に30年かかったという。3億2千万円に対する費用対効果も余りないような気もするが、文化財を保存しても、選挙の票に結びつかないのが困ったものだ。しかし、豊川市は愛知県や名古屋市より文化に理解がある自治体という印象を受けた。
資料館の見学後は、地元の老夫婦と一緒にボランティアの解説を聞きながら国分尼寺跡を見学した。
中門の奥に金堂基壇跡が見える。
三河国分尼寺跡は三河国分寺の北東500mにあり、かつて約150m四方の敷地に本尊を安置した金堂、尼僧が勉学した講堂、尼僧の共同宿舎であった尼坊、時刻を知らせた鐘楼、仏教経典などをおさめた経蔵、中門と講堂をつなぐ渡り廊下としての回廊、寺院正面の門である南大門などの建物が軒を連ねていたことが確かめられ、瓦や土器など数多くの遺物が出土した。
中門は桁間3間、梁間2間の八脚門で、復元建物は法隆寺の東大門や両院回廊など現存建物を参考としながら木造り本瓦葺建物として新築した。国産のヒノキ材を使い、木部はヤリガンナ仕上げ、柱等の部材は朱塗りをするなど奈良時代の建築様式を再現した形で復元を行った。
中門と複式回廊。
朱塗りの柱と緑の連子窓が美しい。連子窓を有する回廊は複式回廊で、壁を挟んで内側・外側両側を通れる贅沢な回廊であった。
金堂跡。基壇階段の塼。
三河国分尼寺の金堂は発掘調査の結果、東西26.1m(柱間7間)、南北13.7m(柱間4間)の瓦葺きの建物であったことが判り、基壇の中心から仏像を安置した須弥壇の跡が発見された。また、基壇化粧は乱石積で、塼(せん)を用いて階段が築かれたことも分かった。
金堂跡。
この金堂の基壇規模は国分尼寺としては最大級であり、奈良時代の金堂の現存建物である奈良の唐招提寺の金堂に匹敵する。
鐘楼跡。経蔵跡。講堂跡。
金堂の北には、左に鐘楼。右に経蔵が、北端中央北には講堂が建てられていた。
講堂は経典の講義などを行った建物で、回廊が中門からこの講堂に繋がっていた。
講堂の北には尼房などが存在していた。尼僧は定員が10人であった。国分寺の僧は20人とされる。
史跡北端の展望デッキから。
敷地は緩やかに南に傾斜している。
鬼瓦。三河国分尼寺跡出土。
東面回廊から出土。様式化が進んで、歯牙が表現されず、優しげな顔立ちをしている。
発掘を指導した石田茂作が描いたこの鬼瓦をモチーフにした暖簾が受付に掲げられている。
泥塔。三河国分尼寺創建瓦。
泥塔は平安時代以降、密教の修法として流行した泥塔供養に使用された。金堂跡から出土。
以降、国分寺跡、国府跡、船山1号墳の順に見学した。
三河国分寺跡。旧南大門跡から。右奥は現国分寺。豊川市八幡町。国史跡。
国府に近い八幡台地の上に国分寺が築かれた。現在の国分寺は16世紀に再興された曹洞宗の寺院で、調査により現在の本堂がかつての国分寺の金堂跡に建てられていることが分かった。
寺域は600尺(約180m)四方の広がりをもち、周囲は築地塀で囲まれていた。西側には塔の基壇や礎石が残っており、調査の結果基壇のまわりは石などの代わりに檜の角材で囲った特殊な作りであることも判明した。
三河国分寺跡。旧中門付近から。
三河国分寺跡。国分寺本堂西側。
国分寺の重文銅鐘は、東大寺鐘・讃岐国分寺鐘とともに数少ない古代の梵鐘で、古代の国分寺または国分尼寺で使用されていたと考えられる。大きさは高さ137.9㎝、口径82.1㎝、平安時代初頭の作と推定される。
青銅製水煙の破片。緑釉小碗、国分寺跡出土。
青銅製水煙は塔の頂部を飾っていた。
各種軒瓦。創建時軒丸瓦と唐草文軒平瓦。国分寺跡出土。
単弁八葉蓮華文軒丸瓦は、8世紀中~後葉のもの。
三河総社。豊川市白鳥町。
延基4年(904年)醍醐天皇によって創建されたと伝わる。
古代三河国の国府については、豊川市域を中心とした宝飫郡(宝飯郡・ほおぐん)内に置かれ、その所在について国府町の的場遺跡と総社周辺の二か所が候補地とされてきた。豊川市教育委員会は、国府の確認調査を実施し、総社東側の曹源寺一帯にかけて正殿、後殿、東西脇殿からなる国庁が存在したことを確認した。
高市黒人の万葉歌碑。三河総社。
「妹も我も 一つなれかも三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる」。
この歌は高市黒人が大宝2(702)年の持統上皇の三河行幸に従駕した時に詠んだもので「いとしい妹も私も一つであるのか 三河の二見の道から別れかねたことよ」と訳され、三河国に一ヶ月ほど滞在した上皇一行が都へ帰る頃の作と思われる。二見の道とは古代における東海道を御油付近から東に分岐し、本坂峠を越えた浜名湖北岸へと通じる近世の姫街道と同じ道筋と推定されている
三河国府跡。曹源寺。
曹源寺境内。現在は埋め戻されている。北東に国司館が置かれていた。
羊形硯。三河国府跡出土。
羊形硯は三河国庁跡の東200mの8世紀後半の遺構から出土した。羊形硯は平城宮跡から2点、三重の齊宮跡、岐阜県美濃加茂市などから各1点の6点しか出土例がない貴重なもので、平城宮や齊宮跡から出土したものと共通点も多く、愛知県の猿投窯産と推定されている。
陶製印。三河国府跡出土。
賀という文字が陽刻されている。賀茂郡または賀茂郷の印と推定される。
軒瓦。國厨(くにのくりや」墨書土器。三河国府跡出土。
墨書土器は国庁跡の北側で出土した。「國厨」は国庁での饗宴や食事を準備するための施設のこと。
蹄脚円面硯。三河国府跡出土。
古代では円面硯や風字硯と呼ばれる硯が用いられていた。この蹄脚円面硯は底部径が30㎝を超える大型硯で、脚部の形状が馬の蹄に似ており、平城京跡などでも出土している。
このあと、北西数百mにある船山1号墳へ向かった。