2016年12月18日(日)。
三河地方最大級の前方後円墳で,全長95m,前方部幅約65m,後円部直径56m,高さ6.5m,後円部を東に向けている。築造の時期は,石室の形態が竪穴式であることや出土した埴輪などから,古墳時代の中期5世紀後葉と考えられる。従前の発掘では鉄刀3点、鉄鉾3点、鉄鏃約70点、家・蓋・盾形の形象埴輪などが出土している。
本古墳は二つの川にはさまれた洪積台地(白鳥台地)基部の標高約26mの場所にあり、西側段丘下には西三河から東三河へ抜ける旧東海道が通るなど交通の要衝の地で、周辺には三河国府や三河国分寺・三河国分尼寺が置かれるなど、三河の古代史を考える上で重要な地域といえる。
三河国分尼寺跡、三河国分寺を経て、三河国府跡のある三河総社から北西数百mの船山1号墳を見学した。船山1号墳の出土品は三河国分尼寺跡史跡公園にある「三河天平の里資料館」で見学した。
北側造出しにおいて各地の調査事例にみられる円筒埴輪列が検出されており、その埴輪列で区画された内部空間で、家・蓋・盾形の形象埴輪を用いた儀礼祭祀が行われたと推定される。
平成27年調査で、墳丘の全長が95mであることや左右のくびれ部に造出しが設けられていることなどが明らかになった。
また、墳丘構造が前方部・後円部ともに3段築成であることが判明した。このような構造の古墳は、大和政権が存在した畿内以外では旧国単位で2~3基程度しかみられないものであり、墳丘規模が三河地方最大級であることも含めると、当地域の古墳の中で最上位に位置付けられる古墳であり、その被葬者は当地域を治めていた首長であると考えられる。
平成27年調査では、南側造出し上面で飲食物の供献儀礼に伴う土器類が出土した。その内訳は土師器小型高坏約25点、土師器はそう2点、笊(ざる)形土器約3点、匙形土製品1点、異形注口土器1点、食物形土製品(あけび?)2点であった。
これらの食物供献儀礼の出土品は匙形土製品及び異形注口土器を除き、近畿地方を中心とした特定の首長墓での食物供献儀礼で用いられるものと同じ内容で、本古墳の被葬者と畿内勢力との関係を示唆している。
出土事例は畿内以東では岐阜県大垣市昼飯大塚古墳、二重県松坂市宝塚1号墳、二重県桑名市高塚山古墳で確認されているが、本古墳における出土はその分布域の新たな東限となる。