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国立台湾博物館 台北 平埔族 シラヤ族 祖霊祭の祭場飾り 壺を祀る村

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シラヤ族。国立台湾博物館。台北。
20161126日(土)。
2階常設展示。原住民文化展示室。
原住民文化エリアには11の展示パートがあり、それぞれ平埔族、タイヤル族、ブヌン族、サイシャット族、ツォウ族、パイワン族、ルカイ族、プユマ族、アミ族、ヤミ族、サオ族の文化を紹介している。

かつて台湾西部地区に居住していた平埔諸族も、台湾南島族の一員に数えられる。約45万人が現存する台湾原住民は、いずれも南島民族に属するが、各部族ごとに特殊な社会文化体系を発展させている。

平埔族は台湾東北部、西部に分布する原住民のエスニックで、漢人と数百年にわたる接触を経て、現在ではその固有の文化と語言はほとんど失われ、一方で台湾の漢人にもかなりの比率で平埔族の血統が融合している。平埔族のなかでも東北部のクバラン族、中部のパゼッへ族、そして南部のシラヤ族の三族の重要な文化の特色を展示している。
 
シラヤ族(西拉雅族)は台湾原住民の一つであり、平埔族の一支族に分類される。主に台南に住み、高雄、屏東にも居住している。八田與一で知られる烏山頭や関子嶺温泉のある地区がシラヤ国家風景区になっている。
 
漢民族が台湾へやってくる前、嘉南平野に点在した平埔族の集落の数々は、ホアニヤ族やシラヤ族と言われる人々で、狩猟や簡単な農耕、漁業を糧として暮らしていた。長らく天災と山地に住む原住民たちが彼らにとっての二大脅威で、自衛のため、一定の場所で生活することはせず、集落の規模も大きくはなかった。
 
漢民族が台湾へやってきたことで、彼らは本格的な農耕技術を知ることになり、平野には灌漑用水のため池が設けられ、稲作が始まった。漢民族は技術や資本において優勢になり、「割地換水」と呼ばれる体制を取るようになった。漢民族がため池を設け、平埔族が土地を分割する代わりに用水を得るという仕組みで、長い年月を経て、漢民族が大量移民するようになると、平埔族は次第に同化されていった。
 
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新港文書。
シラヤ族の主要な部落の一つが新港社で、1624年台湾を占領したオランダが台南に築いたプロビデンシャの地は新港社の土地であった。オランダ人宣教師は、着任後すぐに新港で当地の言語を学び、部落への布教を開始した。そのとき現地語をラテン文字であらわしたのが、新港語である。オランダ人が去ったあとも新港語が使用され、漢民族とシラヤ族の土地契約書などが新港文書として残った。
新港語のmattaは「眼」の意味で、タガログ語、マレー語、フィジー語の「眼」もmataである。新港語はすでに死語になっている。
 
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シラヤ族の女性。
シラヤ族の女性は化粧せず、髪を結わずに「青布」で巻くだけであった。上半身に着るものは「短衣」と呼び、襟に犬の毛や異なる色の布を用いて装飾していた。下半身は一枚の布で覆い、膝下は色つきの布をくるぶしまで巻いていた。シラヤ族の男女は花を差したり、鳥の羽を髻に差して肩まで垂らしたりするのを好んだ。とくに海岸に生える「林投樹」を好み、その濃い香りの花を愛していた。
 
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シラヤ族の伝統的住居。
竹材の柱に茅葺き。
 
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シラヤ族の祖霊祭の祭場飾り。
姨(アンイー)」は、平埔族の宗教儀式を執り行う巫女である。女性が社会の中心である平埔族には、伝統的に、酋長や頭などのリーダーがいないため、「姨」は人と神との間の媒介であり、平埔族の祭儀文化を伝承する最も重要な人物であった。
平埔族は「太祖」(または「阿立祖」)を信仰している。太祖は地上のあらゆる生命を掌る神で、「姨」はその太祖の霊媒師として、儀式で、呪文を唱え、体を動かし、神聖な道具を使って、人と神とのコミュニケーションを図る。
日、平埔族の重要な祭典「太祖夜祭」で、姨は呪文を唱えて、儀式を進行し、歌を歌って神を祭り、公廨(コンカイ)の広場(集会場)でブタを生贄にして、天地の神を拝む。
 
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シラヤ族の祖霊祭の祭場飾り。
イノシシの頭骨が竹の柱に括り付けられ、その下には壺が置かれている。
国分直一の「壺を祀る村」の舞台はシラヤ族の村である。シラヤ族の祖神の神体であるという壺が、かつてはコンカイ(公界、廟)に、戦前期に国分が調査した知母義の部落では各家の祭壇に祀られていた。
昭和38年に国分はシラヤ地方を再訪し、知母義より東方山麓の左鎮郷で阿立祖信仰の遺風に出会う。双角木柱の神座にはキョンやイノシシの頭骨が掲げられていた。壺を祀る形式は簡略化されたものと理解された。
さらに古式があり、「安平県雑記」には、太い竹の上に、人を殺して馘首して皮肉を去った頭骨を掲げていたが、清朝が禁止したので獣骨に変わったと記されている。

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