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台湾 台東市 世界遺産級の卑南遺跡 卑南文化公園

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台東市周辺の地理模型。卑南文化公園。台東駅。旧台東駅。国立台湾史前文化博物館。
20161130()
本日は花蓮県の瑞穂温泉山荘から瑞穂駅に行き、936分発の自強号に乗車し、115分ごろ台東駅に着いた。その後、卑南文化公園と国立台湾史前文化博物館を見学し、旧台東駅近くのホテルに宿泊した。
 
卑南遺跡は201211月の山口県旅行のさいに、国分直一つながりで知って以来、一度見学したいと思っていた場所で、今回の旅行の最大の動機と目的であった。
 
卑南遺跡を保存展示する卑南文化公園は、台東駅西の山裾にある。卑南遺跡の出土品を主体に、台湾全体の考古学・人類学の展示・研究をしている施設が国立台湾史前文化博物館で、台東市域から外れた西の田園地帯にあり、すぐ近くには台東空港がある。
旧台東駅は台東市街の南西に位置し、旧花蓮駅とを結ぶ軽便鉄道花蓮線の終点駅で、現在の東部幹線と南廻線の台東駅が新設されるまでの台東駅であった。
台東駅と台東市街の中心地である旧台東駅・バスセンターは4.5㎞ほど離れており、連絡が不便である。
 
国立台湾史前文化博物館の最寄駅である康楽駅へは台東駅1250分発の列車しか、適当な列車はない。復路の台東駅行きは康楽駅175分しかない。台東駅から旧台東駅までのバス便は不便らしいので、嫌だなと思っていた。そこで、史前文化博物館入館時に台東市内・旧台東駅へのバス便がないか、受付で尋ねたら、1625分に受付近くからのバス便があると教えてくれたので、見学時間は短くなったが、旧台東駅(バスセンター)には17時頃に着くことができた。全行程をタクシーで移動することはもちろん可能であるが。
 
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卑南文化公園。案内図。
右端に線路が見えている台東駅から卑南文化公園の東端にある⑩卑南遺跡保存現場までは徒歩10分ほど。ただし、公園は広く、①公園入口、史前文化博物館の分館である④展示館、⑤展望台、⑥原住民家屋、⑧原住民建物、⑪月形の石柱などは分散しており、かなりの移動時間が必要となる。
 
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卑南文化公園の東端にある卑南遺跡保存現場。入口。
卑南遺跡は新石器時代中期及び後期の重要な遺跡であり、環太平洋及び東南アジアでの最大の石棺墓群と評価されている。
19807月、南廻線台東駅と操車場の建設工事中に、先史時代の遺物を相当数含む卑南遺跡の石棺と棺内の精巧で美しい副葬品が出土し、市民の盗掘が行われた。建設工事は一時的に中止され、台湾大学人類学科の宋文教授による卑南遺跡発掘隊により遺跡発掘保存が進められた。
十年間におよぶ発掘面積1万㎡以上となり、1500基を超える古墳と数万点の土器と石器が出土し、台湾の考古学史上最も完全な形の集落形態の遺跡の中心部分の面積は20~30ヘクタール、広義での遺跡の面積は80100ヘクタールで台湾考古学史上最大の遺跡とされる。
 
遺跡から出土した玉装飾品の様式や数量において台湾の遺跡の中では最多であり、一部が国立台湾史前文化博物館で展示されている。
 
政府は台湾の世界遺産候補となりえるものを評価してきたが、卑南遺跡は初回に選考されたリストの中の11の場所の一つであり、唯一の遺跡である。初回選考では、卑南遺跡・棲蘭山檜林・太魯閣国家公園・阿里山森林鉄道の4ヶ所が、最も可能性のあるグループ1にリストされた。
 
宋文教授は1982年に現地に野外博物館を建設することを提案し、曲折をへたのち、200212月に卑南文化公園は台湾で初めての遺跡公園として開園した。
 
1896年ごろ人類学者・鳥居龍蔵が、最初に卑南遺跡の記録を残し、遺跡の地表石柱を2枚の写真に収めた。
鹿野忠雄は1928年から翌年にかけて初めて卑南遺跡を考古学的遺跡として実見調査した人物で、1930年発表の論文の中で、無数の粘板岩の石柱が地表に突き出ていることを述べている。鹿野は近隣に住む卑南族の伝説から、かつてこの場所に古代の集落があり石柱はその住居の柱であったものであると推測した。
19451月金関丈夫と国分直一は初めて一番大きな石柱(月形石柱)の周辺を発掘調査し、住居跡と土器・石器が埋まっていることを発見した。
戦後、更なる範囲の発掘は行われず、遺跡は保護されることはなかったが、1980年の再発見以後の発掘成果により、評価は一新し、台湾の人々を驚嘆させたのである。
 
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卑南遺跡。住居跡。
炭素14年代測定法によると、卑南遺跡は今から5,300年から2,300年前のもので、3,500年から2,300年前に最も栄えたと考えられる。

古代卑南集落の住居は南北に列に連なり都蘭山のほうを指していて、それぞれの住居は坐西朝東になり、渓流と海を遠望していた。
住居の本体は長方形で東西に長さ11.5メートル、南北に幅5.5メートルです。粘板岩石版や大きな岩で壁の土台を作り、木材で柱を作り、壁及び屋根は竹を組み茅を葺いていた。
前側は石版を方形に敷き前庭とし、後側は石を積み上げ円く囲いを作り食物や大陶罐を置いておく所とした。集落の中にはところどころに高床式穀倉があり、支柱にはネズミよけが付いていた。
 
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卑南文化人の集落。想像図。
集落は卑南大渓に面していたが、彼らは魚を獲ることには長けておらず、魚類は補助的な食物に過ぎなかったとみられる。
 
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卑南遺跡。住居跡。配置図。              (拡大可)

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卑南遺跡。住居跡。石梯。
 
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石梯。博物館の説明図。
 
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卑南遺跡。住居跡。
 
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卑南遺跡。住居跡。
 
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卑南文化では狩猟と農耕が主な生業であった。
 
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彼らは山林では猪を狩り、丘や平原では鹿を獲っていた。
 
 
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陸稲やアワを植え、焼き畑農業の方法で畑を開拓した。
開墾伐採に使う石鍬や石斧、刈り入れの石刀や石鎌、穀物をつくための石きねなどのいろいろな農耕道具が出土している。
 
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石矛や石の鏃などの狩猟の道具が出土している。
 
保存現場を見学後、公園の正式な入口へ向かった。

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