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広島県 靹 大可島城跡 円福寺 鞆城跡 山中鹿介首塚 沼名前神社 安国寺 小烏神社

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鞆。大可島城跡。円福寺。平成25年11月6日(水)。阿伏兎観音から沼隈半島南端を西から鞆に向かった。鞆港南西岸の道路は小型車でも離合困難で、大型車は通行不可能。鞆港を埋立てて橋を渡す計画が紛糾している現状が理解できた。世界遺産を尊ぶ気持ちがあれば反対としかいえない。
一方通行の道を経て鞆の浦へ抜けて、鞆港北東の市営第二駐車場に着き駐車。すぐ北の観光センターは一日料金でこちらの方が安いと後で気づいた。南西の鞆港方面へ向かい、南の石段を上ると円福寺に着いた。
鞆へは30数年前に来たが、バスで往復したため対潮楼で仙酔島を見る時間しかなかった。従って、江戸時代の港町で、朝鮮通信使とのつながりしか印象になかったが、足利尊氏・足利義昭関連の史跡が多いことが分かった。
大可島城は南北朝時代初期に築城されたといわれ、室町時代後期まで、鞆の政治・軍事の中心地であった。康永元(1342)年四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘で合戦となり、大可島城にこもる南朝方の守将桑原伊賀守重信はじめ将兵達は全滅した。正平4(1349)年足利尊氏の弟直義の養子直冬は中国探題として大可島城に入った。
その後、戦国時代、村上水軍の一族が大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権を握った。福島正則が慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、円福寺はこの頃に建てられた。

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大可島城跡。桑原伊賀守一族の墓。説明では、暦応3(1340)年に瀬戸内で南北朝の戦いが始まり、大可島城に拠る足利勢を伊予から新田義貞の一族である金谷経氏を大将とする南朝軍が攻撃し占拠したが、本拠の伊予が北朝軍に攻撃されたので、帰ってしまい、取り残された地元備後の桑原一族が討死したという。
「原伊賀守重信一族 墓域修復碑銘」が横にある。「原重信一族 この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。そもそも原家は代々備後国服部永谷に住し椋山城主たり。元弘の頃備後一の宮桜山茲俊と共に、後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ぬ。南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。先祖を偲び同族相計りて大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。村上正名 撰文 昭和34年8月 原家同族会一同」。

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円福寺から仙酔島方面を眺める。手前は弁天島。仙酔島の国民宿舎が良く見える。この寺には夾明楼という座敷があり、対潮楼とやや違うアングルで風景を眺められる。

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鞆ノ津の力石。鞆港近くの住吉神社に3個、沼名前神社に20個奉納されている。
全て花崗岩製で楕円状を呈し、重さは61貫(230kg)から32貫(118kg)で、重さ、奉納者名などを刻んでいる。天保15年(1844)から安政5年(1858)までの年号が刻まれているものが5個ある。
仲仕は船積荷物の陸揚げや積み込みなどに従事する労働者であり、重たい荷物を肩に担いだ力自慢の人達であった。彼らは、祭礼の場などで力石を使ってその力と技を競い、差し上げた石には名前が刻まれ、神社に奉納された。鞆の津には「東濱・港濱・西濱」の仲仕組合があり、互いに競い合っていたことが知られる。

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鞆港の雁木。

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鞆港。靹港。常夜燈、いろは丸展示館になっている大蔵などが対岸に見える。

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鞆港。常夜燈、いろは丸展示館になっている大蔵。
太田家住宅が開館前だったので、靹城跡のある靹の浦歴史民俗資料館へ向かった。

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鞆城跡。本丸跡。天文22(1553)年に毛利元就の命により、尼子氏への抑えとして備後の渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた「鞆要害」が鞆城の前身とされる。天正4(1576)年には鞆要害に京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護の下で「鞆幕府」とされた。このため鞆には足利氏の歴代の近臣である伊勢氏・上野氏・大館氏他多数の名門武家が集ったといわれる。
安土桃山時代になると福島正則が鞆要害の整備を始め、「鞆城」と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14(1609)年まで続けられたが、あまりに巨大な城郭のため徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後は鞆奉行所が置かれた。

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鞆城跡。南の鞆港方面を眺める。港の左の丘が大可島城跡。
城跡を下り、北の寺社街へ向かう。

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山中鹿介首塚。天正5(1577)年羽柴秀吉が播磨へ侵攻し、上月城を落城させると、尼子氏再興を図る尼子勝久・山中鹿介(幸盛)ら尼子主従はそこに籠もった。翌天正6年吉川元春・小早川隆景らの毛利軍に囲まれ、救援の羽柴秀吉も三木城攻略のため撤退、孤立した尼子勝久は毛利氏に降服し自害。山中鹿介も捕らえられ、鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送されることとなったが、途上の備中国阿井の渡で謀殺された。山中幸盛の首級は鞆に運ばれ足利義昭と毛利輝元が共に実見を行った。
同所には古代の「ささやき橋」伝説が残る。応神天皇の頃、百済からの使節の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦は役目を忘れ、夜ごとこの橋で恋を語り合っていた。それが噂になり、二人は海に沈められたという。

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沼名前神社。鞆町の西方山麓にある。鳥居は寛永2(1625)年に水野勝重(勝俊)が寄進したもの。

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沼名前神社。延喜式式内社であるが、その後記録に現れなくなる。明治時代に復活させて、本殿の祭神を大綿津見命とし、相殿の祭神を素戔嗚尊とした。大綿津見命は渡守社の、素戔嗚尊は鞆祇園宮の祭神であった。祇園宮は平安時代初め頃に京都八坂神社から勧請したものという。福山藩主水野家も崇敬し、天和2(1682)年に本殿を再建した。
渡守社は神功皇后が鞆の浦で船と兵士を備えたさい、大綿津見命は弓鞆を祀ったことから、この地を鞆と名付けたと伝える。

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沼名前神社。能舞台。重文。水野勝成が伏見城にあった豊臣秀吉愛用の能舞台を徳川幕府から拝領し、福山城へ移築したと伝わる。1650年代に福山藩主の水野家より当神社に寄進した日本唯一の組立式能舞台。

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沼名前神社。能舞台。内部は公開されていない。

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安国寺。鎌倉時代に建立された金宝寺を暦応2(1339)年に、足利尊氏が備後安国寺としたもの。室町時代末に衰えたが、安国寺恵瓊により再興された。

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安国寺。釈迦堂。重文。金宝寺時代の仏殿である釈迦堂の建立は鎌倉時代にさかのぼる。桁行・梁間各三間、一重、入母屋造り、本瓦葺きで、典型的な禅宗様仏殿形式を伝えている。天正7(1579)年に大修理をしている。

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安国寺。釈迦堂。木造阿弥陀如来及び両脇侍立像。木造法燈国師坐像。いずれも重文。
本尊の阿弥陀三尊像の胎内銘から、この像は、文永11(1274)年に空蔵房寛覚を大勧進、平頼影を大檀那として大仏師覚尊によって金宝寺のために造立されたことがわかった。
観音菩薩、勢至菩薩との三尊で、三尊像が1枚の大きな光背を負う形は善光寺式阿弥陀三尊像と呼ばれる形式である。
木造法燈国師坐像は像内納入文書に建治元年( 1275)年とあり、この時の造立と思われる。法燈国師69歳の寿像で、年代の明らかな日本最古の頂相彫刻、および最古の寿像とされる。

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安国寺。本堂跡。大正9年に失火により焼失した。

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安国寺。庭園。室松時代末期の作庭とされる枯山水庭園。慶長4(1599)年に安国寺恵瓊が修築し蘇鉄を植樹したという。近年作庭家の重森三玲が復元した。

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安国寺。庭園。亀島。

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安国寺。庭園。鶴島。

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小烏神社。福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造ったさい、その氏神として創建されたという。
小烏神社周辺は南北朝時代の「小烏の森合戦」古戦場としても知られる。正平4(1349)年に足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に居を構え勢力を拡げていた。直義派の台頭を快く思わない高師直はそれに対し直冬謀反の兆し有りと尊氏に吹聴し、備後亀寿山城主宮兼信、杉原利孝らに命じ直冬追討軍を派遣した。
それに対し直冬も手勢をあつめ、小烏の森で迎え撃つも寡兵かなわずに敗退し、九州に逃げた。

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枡屋清右衛門宅。慶応3(1867)年に鞆の沖合で坂本龍馬ら海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸が衝突し、いろは丸が沈没した。事故の交渉のため坂本龍馬が宿舎にあてた隠れ部屋が残る。
火水木は休館だった。

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対仙酔楼。鞆の豪商「大坂屋」が建てた木造二階建ての門楼。文化人の接待に使われた。頼山陽は漢詩「対仙酔楼記」の中で、窓から望む夕暮れの風景を「山紫水明処」と表現した。
鞆の町を一周し、開館前だった太田家住宅へ向かった。

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