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「赤松氏五代」 渡邊大門著 2012 ミネルヴァ書房 読書メモ

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赤松円心の出自を太平記では九条家領佐用荘苔縄村(現・上郡町)出身の村上源氏とする。
通説では赤松円心を悪党的商人の出自とする。
依藤保説は赤松氏は佐用荘赤松村を本貫地とした六波羅配下の関東御家人であったとする。
九条家領佐用荘は鎌倉期に関東御領となり、荘内に預所として関東武士が置かれた。円心が播磨国守護(六波羅北探題)常葉(北条)範貞と被官関係を結んだ。元弘の乱発生時、赤松氏は当初鎌倉幕府方として護良親王方を攻撃した(日静文書)が、のちに鎌倉方を裏切った。
 
悪党の時代。「峯相記」。播磨の鎌倉時代末期の悪党。
東大寺領大部荘(小野市)。雑掌を解任された在地の有力者が年貢・牛馬・資材の奪取、百姓の絡め取り、稲の刈り取り。康永21343)年、守護代宇野頼季が悪党行為に加担。
東寺領矢野荘(相生市)。開発領主秦氏。跡を継いだ公文の寺田氏が押領。
 
円心と雪村友梅。苔縄の法雲寺開山。建仁寺第30世住持。
 
赤松範資。円心の長男。惣領。建武41337)年、摂津国守護。播磨国守護。観応21351)年没。
範資の子、光範は摂津国守護職を継ぐ。赤松七条家
赤松則祐。円心の三男。惣領・播磨国守護を継ぐ。赤松則祐の妻は佐々木導誉の娘。
 
足利尊氏と直義の戦いと和睦の動き。赤松則祐は護良親王の子・赤松宮を推戴。一時、南朝方。
赤松則祐。禅律方引付頭人に就任。幼い足利義満白旗城で三か月保護。その後も養育。
城山城の築城。文和元(1352)年。山陰の山名氏への対応。矢野荘が負担。
 
頻繁に交代する摂津国守護。赤松光範、赤松則祐、山名繁氏、佐々木導誉。分郡守護。
 
赤松則祐。貞治41365)年、備前国守護。守護代、浦上行景。
則祐。宝林寺。和歌。
 
赤松貞範。円心の二男。美作国守護。赤松春日部家。春日部荘(丹波市)黒井村地頭職。
 
赤松義則・三カ国守護。嘉慶21388)年、侍所所司。京都市中の治安・警察・民事裁判。
康暦元(1379)年、康暦の変。明徳21391)年、明徳の乱。足利義満による山名氏勢力削減。
義則は美作国守護職を得る。
播磨。守護代所。広瀬、坂本、石見。のちに英賀
石見は現在のたつの市石見。赤松下野家
国衙眼代職・小河氏。在庁官人の系譜を引く。守護赤松氏により補任。
 
荏胡麻商人。大山崎神人と佐用郡中津河商人の争い。
 
備前国守護代。浦上氏の活躍。大和額安寺領金岡東荘に関する史料。守護代・浦上助景。小寺氏。
美作守護代。浦上氏。摂津有馬郡分郡守護。
 
伊和神社。播磨国一宮。義則の頃、国衙目代から守護の管理に代わる。
赤松有馬氏。有馬郡分郡守護。赤松義祐。赤松則祐の五男。義則の弟。
 
応永341427)年の赤松満祐播磨下国事件
正長元(1429)年、土一揆。
赤松満祐。侍所所司。
 
赤松大河内家赤松満政。足利義教の申次。公方御倉。幕府の財産管理。兵庫関代官。日明貿易との関連。
 
足利義教。専制政治。守護家への介入。
嘉吉の乱。嘉吉元(1441)年。赤松満祐の子息・教康の招宴。周到に準備していた満祐による天皇・将軍の擁立。足利義尊の擁立。足利直冬―冬氏―義尊。南朝皇胤・小倉宮。
 
難題となった綸旨発給。足利家と赤松家の私闘で、朝敵ではない。後花園天皇の添削。天皇の政治的意欲に対し公家は消極的だった。
 
赤松氏の居城・坂本城落城。城山城へ逃げた赤松満祐は自害。
 
長禄の変。長禄元(1457)年。小寺性説が神璽奪還。加賀国半国守護。細川・赤松体制。山名氏への対抗。
浦上則宗の台頭。幕府は守護を凌ぐ勢力とみなした。
 
赤松政則。応仁元(1467)年、播磨を奪還。一族有馬氏・在田氏の反乱。
文明151483)年、山名氏の播磨侵攻。政則の敗走と混乱。別所則治が政則を擁立。山名政豊の撤退。別所則治が東播八郡守護代。赤松政秀が西播八郡守護代。
 
明応51496)年、赤松政則の死。赤松義村の就任。浦上則宗、別所則治、赤松則貞、小寺則職、薬師寺貴能の推挙。赤松政則の後妻・洞松院尼(細川勝元の娘)の活躍。
 
赤松義村の支配。永正121515)年~14年頃確立。浦上村宗と交戦。赤松義村の敗戦。家督を政村(晴政)に譲り、足利義晴を伴い逃亡。浦上村宗は赤松義村を暗殺。
 
赤松政村擁立派の挙兵。小寺村職、宇野宗景(龍野赤松氏)、浦上村国。
但馬山名氏の第二次播磨国侵攻。大永31523)年、小寺氏らが浦上村国と結び、山名氏を撃退。
 
享禄41531)年、細川晴元と対戦した細川高国側の赤松政村が裏切って浦上村宗を攻撃し討死させる。
 
天文61537)年、尼子詮久の播磨国侵攻。三木城の別所村治のみ抵抗。赤松政村は置塩城から脱出し、淡路へ。
永禄元(1557)年、赤松晴政(政村)が子の赤松義佑に家督を奪われ、赤松政秀(龍野赤松氏)に庇護される。

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