引作の大楠(ひきづくりのおおくす)。
2017年2月5日(日)。三重県御浜町。
道の駅「七里御浜」で起床。予報どおり一日中雨となった。
まず、引作の大楠のある引作神社へ向かうため、内陸の丘陵地帯へ進む。枝道を入ると、こんもりとした枝葉の樹木が目に入ってきて、引作の大楠と分かる。
樹高は約35メートル、直径が約4メートル、樹冠の大きさは東西に約30メートル、南北に約45メートルを測る。
引作の大楠は1989年の環境庁全国巨樹調査で三重県一の巨木と認定された。「新日本名木100選」に選定されている。
引作の大楠。
推定の樹齢は1500年といい、地面に接する付近は空洞になっているが樹勢は旺盛で、地上約4メートルあたりから主幹が4本の大枝に分岐し、遠目ではこんもりとしたクスの森のように見える。
引作の大楠。説明板。
引作の大楠は明治44年に付近にあった杉の大樹とともに伐採されることになったが、このことを知った南方熊楠は、民俗学者で当時内務官僚であった柳田国男に至急便の手紙を出し、伐採の中止を働きかけるよう要請した。柳田は三重県知事に書簡を出し、伐採を中止するよう働きかけ、危ういところでこの大楠だけは伐採を免れた。
丘陵地帯の道を通り、紀宝町の神内神社へ向かい、神社横の駐車場へ着いた。
神内(こうのうち)神社。入口。三重県紀宝町。
神内神社は、石英粗面岩(熊野酸性岩)の岩壁をご神体として祭った原始宗教の名残りの神社で、かつての熊野の自然崇拝の有り様を現在に伝えている。
祭神は天照大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鵜草葺不合尊。
ご神体は高さ100mの巨岩にある六尺(約1.8m)四方の岩窟。
神内神社。説明板。
社殿は自然成岩窟にして空間六尺(約1.8m)四方あり、伝承によると、当地方には往昔、小田坪の在ノ森(一説には近石の逢初の森)と呼ばれる所があり、そこに伊弉諾尊・伊弉冉尊二尊が降臨。よってこの地を神皇地と称したが、後に神内村と改められたと伝える。また、それに因んでのことか、後年神明神社から神内神社に改称。当社の義は近石と申すところに逢初森(アイソメノモリ)というのがあり、そこに伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナギノミコト)天降らせ一女三男を生み給う。この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る。よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う」とあり。
明治三十九年十二月二十五日、三重県告示第380号を以って神饌幣 料供進社に指定される。 社殿は自然成岩窟にして空間六尺)四方あり、境内六反八畝十歩。近郷の人、子安の神、安産の神として参詣するもの多い。また豊漁の神として近隣の漁師の信仰厚い。
参篭殿に置いてあったパンフレットで知ったが、「日本の聖地ベスト100」(植島啓司著)で第10位、パワースポットとして人気を集めているという。2010年にはテレビで紹介され、ビートたけしが収録のために来た。「世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く」(植島啓司著)にも確かに記述がある。
神内地区の史跡を紹介するパンフレットは2種類置かれていたが、マイナーな地区ながら、これほど詳細・熱心に紹介している地区は珍しい。
鳥居近くにあるホルトノキ。樹齢800年以上という安産樹。下部に石を抱いている。
神武天皇祀所。明治天皇祀所。佐倉宗吾宮石碑。
参道を進むと、すぐ右側の岩窟内部にある。
社殿・参篭殿に登る石段。
石段上から。
神社の下を流れる川は神内川という。石段を上がる前に見て、伊勢神宮の五十鈴川のような古式な禊場だと感動した。
社殿と巨岩。
巨岩の下に岩窟があるが、見えない。
社殿と巨岩。
神内川と石段に禊場。
雰囲気に感動したので、境内参道から車道へおり、神内川の対岸へ渡った。
御神体の巨岩。
車道を先に進み、神域を過ぎると、その先は単なる田園であった。
駐車場へ戻り、パンフレットにある神内神社南100mの「古神殿」へ向かい、横のスペースに駐車。
古神殿。
小高い岩山の下部にご神体と思われる岩窟がある。
神内神社の本宮といわれ、奈良時代以前の神殿があったという。
古神殿。ご神体と思われる岩窟。
「天の岩屋みたいに石が二つに割れて女陰のようになっている。まるで子宮のような構造からして、ここも籠もりの場であることがうかがい知れる気がしてならなかった。」(「世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く」)。
古代、神内川の下流約1.5㎞ほどの地点にある禰宜島の巫女の禰宜姫が託宣を言い渡す場所であったと言い伝えられている。
このあと、鵜殿城跡、貴禰ヶ谷社を見学し、熊野市内へ向かった。