鵜殿城跡。三重県紀宝町。
神内地区の神内神社と古神殿の見学を終え、鵜殿城跡へ向かった。「紀宝町ふるさと歴史館」をナビの目標にした。神内地区から住宅街の狭い道を進むと、行き止まり状態になり、国道42号線方向から入り直して、歴史館前の駐車場へ駐車。
事前に歴史館の定休日などを検索したが、反応はなかったので奇異に思っていたが、歴史館の玄関から内部を覗くと、休止状態であることを確認した。駐車場は利用できるので、鵜殿城跡への登城口として利用できる。
階段状の遊歩道を登ると5分余りで、丘陵頂部の鵜殿城跡に着いた。中央に説明板、南の海側に展望台がある。
鵜殿城跡。
鎌倉・南北朝時代に鵜殿氏が居城とした。中世山城の特徴をよく残し、東西約14m・南北約24mの卵形曲輪の周囲には土で土手状に積み上げ、中が窪地になっている掻上式土塁が廻る。
鵜殿城跡。北の空堀跡。
山の尾根筋を切って空堀にしている。
鵜殿城跡。南の展望台からの眺め。
築城当時は、熊野川河口を出入りする船、沖合を航行する船、麓の街道の往来を監視する重要な位置にあった。
現在は製紙工場が大きく景観を奪っている。
鵜殿城跡。説明板。 (拡大可)
南北朝時代に攻防の戦場となった。鵜殿氏は興国4(1343)年に南朝方から北朝方に転じたため、熊野川地方の川奥の南朝方から攻撃を受けた。興国4(1343)年9月18日鵜殿城は南朝方から攻められるが、21日には撃退した。永徳2年・弘和2年(1382年)には南朝方の北山郷の攻撃を受け落城したという。明徳3(1392)年に南北朝合一が成り、戦いは終結した。
鵜殿氏については、「鵜殿長政のとき三河に移った。熊野年代記によれば、大坂の陣で豊臣に味方した鵜殿氏は帰らずとあり、史書から消える。」と記されている。
北の空堀から遊歩道が続いており、15分ほどで北西の貴禰ヶ谷社に着く。
鵜殿城跡。貴禰ヶ谷社に至る遊歩道から。
左の丘陵が鵜殿城跡。その右に、国道42号線、熊野川。中央は矢淵中学校のグラウンド。
「鵜殿氏一門の墓」。貴禰ヶ谷社。
2基の宝篋印塔と13基の五輪塔が、貴禰ヶ谷社本殿向かって右の台地に並ぶ。
「鵜殿氏一門の墓」の説明板。貴禰ヶ谷社。 (拡大可)
「鵜殿氏は鎌倉、南北朝、室町の激動期に、ここ鵜殿の地に居住し、鵜殿庄司、新宮問丸(中世海上運輸の仲介者)、熊野水軍の将、また新宮神官として幅広く華々しい活躍をした豪族である。鎌倉期山城の特徴をもつ鵜殿城は、この鵜殿氏の築城と考えられる。
熊野水軍の活躍は史書に度々登場するが、左の綸旨とともに、武田信玄が鵜殿神次郎に宛てた巻数、矢根の礼状なども現存する。
ここに並ぶ2基の宝篋印塔と13基の五輪塔は鵜殿城跡の一角にあったものを、村内の敬信家たちがこの地にまとめて安置したもので、村人たちは「ちんちろ様」と呼んでいた。
いずれも鎌倉期、南北朝期石造物の特徴を備えていて、鵜殿氏活躍の時代と、もと在った場所から、鵜殿氏一門の供養塔、墓碑と推定される。平成8年4月、宝篋印塔の相輪部分、五輪塔の地輪部分が折損、亡失したものを修復した。
左の複製文書は、興国3(1341)年鵜殿庄司らが土佐で花園宮(満良親王、後醍醐天皇の第11皇子)を援けたさい、後村上天皇がその軍忠を賞し、所領を安堵した髻の綸旨である。」
鵜殿氏は紀伊鵜殿に在住したことから鵜殿を称する。鵜殿氏は南北朝時代ごろに三河の蒲郡へ移住し、応仁の乱の前後に今川氏の被官として勢力を伸ばした。桶狭間の戦い後、永禄5年(1562)鵜殿氏本家の上ノ郷城主鵜殿長照は今川氏に属して松平元康(徳川家康)と交戦し滅ぼされたが、庶家は松平氏に属したため、鳥取池田藩家老家、旗本家として家名を後世に残した。
鵜殿氏の祖は高倉下命、熊野(田辺)別当湛増、熊野(新宮)別当、熊野七人衆の常香などの諸説がある。
平安時代の久安元年(1145)から同5年まで三河国司を務めた歌人藤原俊成は現在の蒲郡にある蒲形荘・竹谷荘を開発した。のちに俊成は熊野三山に竹谷荘、蒲形荘を寄進し、熊野別当湛快やその娘婿の平忠度などが領して、熊野系武士団の形成や熊野系神社の創建、熊野地方との海上交通がなされた。
源平合戦後は平家没官領となったが、合戦末期に熊野水軍の源氏方加担などに対する恩賞的に、源頼朝により熊野山領に戻された。やがて藤原氏系荘官で、湛快の子孫にあたる熊野出身の鵜殿氏が移住し、上ノ郷城等を拠点として蒲郡地方を支配地とした。
源頼朝のころ、紀伊新宮の別当の子が取り立てられて西ノ郡(蒲郡)を与えられたという記録や鎌倉時代には竹谷・蒲形荘が熊野社領であったという記録が「吾妻鏡」にある。
三河に移ったのは鵜殿長政のときとされる。熊野系図によると、鵜殿長政の兄弟に鵜殿長高があり、3代のちの高義が綸旨を受けた熊野庄司である。その後裔として、武田信玄から礼状を受けた鵜殿神次郎、大坂の陣で豊臣に味方したという鵜殿氏がある可能性がある。また、徳川家康から甲斐国熊野領の支配を安堵されたという鵜殿孫重郎も存在する。
貴禰ヶ谷社。説明板。
神代の頃に新宮の神倉山にお降りになった熊野神が、約2500年前にここにお移りになり、速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三柱の神を二つの社殿に祀っていたが、約2000年前に、この祭神の内、家津御子大神が本宮へ移られ、約1900年前に、熊野神が新宮へお移りになった。この時に鵜殿諸手船(もろとぶね)が神幸船を先導し奉ったことが伝えられている。
境内からは古墳時代末期頃(約1500年前)から鎌倉時代頃(約700年前)までの祭祀用の古い土器も出土し、熊野地方とくに鵜殿村にとっては神倉山に次ぐ古い祭祀遺跡で最も貴重な文化財である。
貴禰ヶ谷社。
御祭神は熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津御子大神。
新宮の神倉山に次ぐ、熊野信仰の発祥の地ともいえる神域である。
貴禰ヶ谷社。
遊歩道の上から社の神域である谷間を見下ろすことができる。
このあと、熊野歴史民俗資料館へ向かった。