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三重県東紀州 熊野市歴史民俗資料館 大馬神社

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熊野地方の縄文時代。熊野市歴史民俗資料館。三重県熊野市。
201725日(日)。
鵜殿城跡、貴禰ヶ谷社の見学を終え、熊野市歴史民俗資料館に移動。古いタイプの歴民。赤木城跡や熊野市域の道路地図などパンフレットは豊富。月木休み。水曜日午後遅くに花の窟へ着いたため、本日まで見学機会を逸した。
 
熊野地方の縄文文化は、早期末は主として東海地方の影響を受け、その後は畿内文化が優勢になったという。
近畿地方の一部としてのものがベースとなりながら、常に東海を通じて中部・関東北陸とまでも関連のある土器形式が見られ、ある時期には近畿地方中心部の諸遺蹟とは異なった様相が見られる点は、半島が当時交通の重要な通路にあたっていたことを示すのではないかとされる。
尾鷲市曽根の曽根遺跡・熊野市の釜ノ平(かまのだいら)遺跡などの出土品からは、熊野の海や山を越えて繰り広げられる東西交流が活発だったことがうかがわれる。
 
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縄文土器。釜の平遺跡出土。深鉢(前期中葉)。船元式深鉢(中期初頭)。
熊野市有馬地域の地形は典型的な海岸砂丘地形で、海岸と平行して海抜10mくらいの砂丘が続き、その内側は低湿地になって産田川が流れている。
低湿地は田んぼとなって開発され、海岸と平行する砂丘上と、低湿地の奥の山裾に集落が立地した。
縄文遺跡の釜の平遺跡は砂丘上に、弥生遺跡の津の森遺跡は山裾に立地した。
 
釜の平遺跡には西日本系の遺物と東日本系の遺物が混在しており、東西海上交通の接点の一つと考えられる。志原池と紀勢線線路の間に位置する。 
縄文早期(7000年前)の土器片が出土。縄文中期(5000年前)の船元式土器(縄文時代中期の土器で、近畿地方から北九州にわたる広い範囲で出土する) の土器の出土が最も多い。縄文後期(3000年前)の土器の出土は少ないが、純粋の加曾利B-I式が出土しており、関東からの移入品の可能性がある。
 
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熊野地方の弥生・古墳時代。
弥生時代中期の前半から古墳時代へかけて畿内型という主流に対して、東日本の東海型ともいうべき文化が盛んに入り混じってくるという。
 
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津の森遺跡出土品。滑石製勾玉。須恵器。土師器。土製錘。
津の森遺跡は産田神社の周りに広がっている。この地方では最大の弥生時代の集落遺跡で、当時は湿地が多く、半島状に着きだしていた津ノ森地区が米作りに適していたと考えられる。遺跡の範囲は、南北250m、東西500mにわたっている。
 
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壺。津の森遺跡出土。弥生時代中期。
 
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安楽寺。説明。
安楽寺は産田神社のすぐ東にあり、文安元(1444)年に有馬忠清により創建された。
有馬氏の本姓は熊野三統(榎本、鈴木、宇井)の一つ榎本氏で、古代から産田神社の神官ちして移住したが、鎌倉時代から地方土豪の武士団の性格を持ち、室町時代には西は阿田和から東は九鬼までを領する一大勢力となった。戦国時代後期、有馬氏の内紛に乗じて、新宮の堀内氏善が有馬氏を倒し、更に北方紀伊長島迄を支配下に収めた。志摩国に属していた尾鷲および北牟婁郡域が紀伊国に入ったのはこの時からといわれる。
 
館長らしき人に説明を受けながら、30分ほど見学し、花の窟、産田神社とともに有馬三山といわれる大馬神社へ向かった。
 
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大馬神社。入口。
坂上田村麻呂の創建と伝わる。
2011年年9月の紀伊半島大水害で甚大な被害を受けて、復旧工事が行われたようだ。橋などが整備され、広い駐車場もある。
 
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大馬神社。入口。説明板。
創始は明らかでないが、平安時代から祀られている神社で、市内で最も古い文明10年(1478)の棟札がある。
恒武天皇(737806)の頃、坂上田村麻呂(758811)がこの地方を荒らす賊を討ち、賊の頭の首を地中に埋め、その上に社殿を建てたのが始まりといわれる。その後、智興和尚という人がこの話を伝え聞いて参詣しようとしたところ、田村麻呂の霊が現れ案内した。霊は大きな馬に乗っていたことから大馬神社と呼ばれるようになったという。
元は大馬地区の産土神であったが、現在はふもとの八幡神社が遥拝社となっており、現在は井戸町全体の氏子組織によって祀られている。毎年順番で当屋を決め、当屋になった組が1月6日の祭礼をとりしきる。
 
弓引き神事:
祭礼の日には、弓引き神事が行われる。当屋の組から弓引きと矢取りが2名ずつ選ばれる。当日の朝、水垢離を取った後、直垂に着替え、刀を差して烏帽子をか被る。まず、的に向かって1人につき数回矢をひき、神主から御神酒を頂いた後、再び的に向かって矢を放つ。最後に流し矢を行って終了する。
 
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大馬神社。参道の説明板。
 
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大馬神社。清滝。
参道の途中から眺める。ご神体ともいわれる。
 
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大馬神社。社殿。
この社殿の下に坂上田村麻呂が討ち取った鬼ケ城の多娥丸の首が埋められていると伝わる。
 
祭祀場所の背後に岩壁があり、傍らに滝がある。それに古木老杉をそえてその自然環境は自ら神秘神威感に富み、古代からの自然信仰の神域であったと考えられる。
 
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ご神木の夫婦杉。
社殿境内入口にある。
 
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ご神木の夫婦杉。
 
1420分過ぎに、大馬神社を辞し、熊野市街地へ向かった。一日中雨なので、あまり見学する気分にはなれない。駅の横にある熊野市図書館へ行くと、熊野学の講座が開かれていたが、ほぼ終了する時刻であった。地域書のコーナーに立ち寄った。
銭湯「みはま湯」が開店する1530分になったので、図書館の駐車場から向かった。
 
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銭湯「みはま湯」。熊野市木本町。
入浴料400円。旅行のさい、日帰り温泉には入浴するが銭湯にはほとんど入った記憶はない。熊野市沿岸部では駐車場付きの貴重な入浴施設である。
1540分ごろ着いたが、既に数人の客が入っていた。
入浴後、道の駅「七里御浜」へ向かった。

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