徳司神社。三重県熊野市新鹿町。
2017年2月6日(月)。
波田須から国道311号線を北進し、曽根へ向かう途中は景色のよいスポットが多い。
石垣の積石に丸い石を使っているのが、この地方には多いというので立ち寄った。作家の中上健次は一時、新鹿に住んでいた。
新鹿湾。徳司神社の海岸沿いから眺める。
新鹿海水浴場は環境庁「快水浴場100選」に選ばれている。青く透き通った遠浅の海と白い砂浜が人気らしい。
二木島港。熊野市二木島町。熊野古道・曽根次郎坂・太郎坂入口道標付近の国道から。
南は牟婁崎、北は天下の奇勝・楯ヶ崎に囲まれたリアス式海岸の湾奥にある天然の良港。
江戸時代には、紀伊国牟婁郡木本組に属し、二木島浦として紀州藩の配下にあった。
当時は熊野灘を行き交う航路の寄港地として栄え、『日本航路細見記』は「二木島は上下の大みなと也」と記し、『全国湊くらべ』は二木島港を西前頭四枚目に格付けした。船乗りを相手とした遊女も出現した。また捕鯨が行われ、鯨の供養塔の建立や藩主・徳川重倫の鯨突取り漁法観覧が行われた。
昭和になり、道路・鉄道が整備されるまで、熊野地方随一の良港であったと、熊野市歴史民俗資料館で聞いた。
太郎坂広場からの海景。中央は楯ケ崎。
楯ケ崎は、高さ70m・周囲600mの大岸壁で、まっすぐな無数の柱が連なったように見える「柱状節理」と呼ばれる地形が特徴である。
日本書紀などに記された神武天皇東征の際には、この付近に上陸したという説がある。
太郎坂広場。説明板。
神武天皇は東征のおり、熊野の荒坂津へ上陸し、辺りを支配していた丹敷戸畔(にしきのとべ)を討伐して吉野・大和を目指した『日本書紀』に記されている。丹敷戸畔が二木島と似ており、二木島の昔の村名が荒坂であったことから、近くの楯ケ崎に上陸したといわれる。
神武天皇東征上陸地は主な説として、5ヶ所ある。二色 (潮岬の付根、西側) 、浜の宮 (紀勢線那智駅付近) 、三輪崎 (新宮市)、二木島 (熊野市)、錦 (紀勢町)。
楯ケ崎。楯ケ崎観光駐車場から。
楯ケ崎の海側が海金剛とよばれる。
曽根郷土資料室。尾鷲市役所南輪内センター内。
国道のトンネルを越えると、尾鷲市曽根地区だった。曽根城跡への登城ルートの情報があるという曽根郷土資料館へ向かうが、火曜の午前中のみ開館で事前予約が必要だというので、その奥にある尾鷲市役所南輪内センターへ入った。女性職員に尋ねると、館長が病気でほとんど休館状態という。その代わりに、曽根郷土資料室というコーナーが設けられているので、見学した。
曽根地区の文化財情報のリーフレットなどをもらい、曽根城跡へのアクセスも確認した。
縄文土器。深鉢。元住吉山式。曽根郷土資料室。
元住吉山式土器は畿内型の縄文時代後期末葉初のもので、曽根遺跡や紀宝町成川からも多く出土する。この土器は頸部のくびれた深鉢型を主体とするこの型式の、しかも装飾あるものの中での好例である。
曽根遺跡出土品は、縄文時代から古墳時代へと長い期間にわたるもので、熊野灘沿岸では例のないものと評価されている。
曽根遺跡の発掘と調査。曽根郷土資料室。
旧曽根小学校を中心とする曽根遺跡は、大正12(1923)年から鈴木敏雄・倉本為一郎両氏によって調査されたが、昭和29(1954)年より大阪大学角田文衛教授、奈良国立文化財研究所坪井清足技官らの協力を得て、当時の曽根小学校長であった嶋正央氏の研究により、曽根遺跡の全貌が明らかとなった。
それによって、曽根遺跡は縄文式各期(早・前・中・後・晩)、弥生式および古墳期を含む貴重な遺跡と判明した。昭和34(1959)年1月嶋正央氏は「奥熊野の縄文式文化」を発刊し、「曽根遺跡は夏季には南東の暴風を、冬季には北西の強い季節風を避ける最適の地であり、航海力の微細な太古には地先漁業地として利用価値があり、そのため多くの文化遺産を留めた」と述べている。
曽根遺跡からは、石刀三振・石剣一振・垂玉一個などが出土し、当時豪族の居住していたことが予想されるが、各種多量の出土品は、太古において、曽根が文化都市であったことを物語っている。
曽根郷土資料館の開設。曽根郷土資料室。
曽根郷土資料館は、平成9年6月、旧曽根小学校の校舎に開設された。
旧曽根小学校校舎。
曽根郷土資料館は改装され、旧曽根小学校校舎としての旧観を回復したようだ。
曽根小学校は明治11年開校。明治43年7月21日に現校舎築。1981年(昭和56年)賀田小学校へ統合され閉校。現在も使われている建物としては三重県でも最も古い校舎建築のようだ。
明治時代の洋風小学校校舎はよく見てきたが、和風建築は珍しい。玄関上の向拝は寺社建築のものだ。
曽根城跡へ向かった。