見世土井家住宅。三重県尾鷲市。
2017年2月6日(月)。
曽根地区の見学を終え、尾鷲市内へ入った。重文級の土井本家の洋館を見たかったのだが、よく分からず。「土井子供くらし館」を見学するついでに見られるようだが、情報が少ない。
朝日町周辺を探索すると、土井忠兵衛という表札のある屋敷が通り沿いにあった。塀から覗くと洋館が見えた。これは「見世土井家住宅」で分家の洋館であった。生活臭がないと思ったら、今は空き家で市が管理しており、活用を検討しているという。
「土井見世邸」は2015年8月に国登録有形文化財に登録された。
尾鷲有数の山林経営家、見世土井家の住宅で、尾鷲市朝日町の一角に所在し「土井見世邸」として広く知られ、山林経営家の風情あるたたずまいを今に残す貴重な建物群である。
主屋は昭和6年に建築された、当時人気の高かった和風モダニズムの住宅。東側に洋館、西側に和風の居宅をつなげた構成で、洋館部分は細部の意匠にアールデコのデザインを用い、1階・2階の窓にはステンドグラスが取り入れられ外観のアクセントとなっている。
見世土井家は、紀州尾鷲土井家・本家の五世である八郎兵衛宗軒氏の三男、忠兵衛氏が分家して祖となった旧家であり、代々の山林経営とともに生活必需品等の販売を行ってきたことから「見世(店)」の屋号をもち、「土井見世」と呼称され広く親しまれてきた。代々の当主には、尾鷲組大庄屋や初代尾鷲町長を務めるなど、尾鷲市の歴史とも関わりが深い旧家の一つである。
尾鷲神社。三重県尾鷲市。
尾鷲の総氏神といわれ、2月1~5日には尾鷲市の例祭・ヤーヤ祭が盛大に開催される。当日も、祭礼がおこなわれ、境内には青年たちが屯し、露店も出ていた。
本殿は、宝永(1707)の大地震・大津波で流されて、現在地に移った。
尾鷲神社の大楠。
神社境内にある2本の巨大な楠は、道路にまではみ出すほどの大きさ。昭和12年に県の天然記念物に指定されており、周囲10mにも達し樹齢は1,000年以上と推定される。
尾鷲神社の大楠。
尾鷲神社境内にある2本は特別大きく、南側(北川寄り)のものは目どおり周囲10m、北側(本殿寄り)のものは9mに達しており、樹齢約1000年以上と推定されている。幹の地上8m付近までが空洞になっている。
往古、クスノキは玉串に使用された神木であった。紀州藩が寛永12(1635)年に行った調査では、当時すでに周囲6mの大木であったことが分かる。
このあと、道の駅「海山」へ向かった。
種まき権兵衛の里。三重県紀北町海山区。
2017年2月7日(火)。
道の駅「海山」で起床。本日が実質的な旅行最終日。9時過ぎ、道の駅のすぐ近くにある種まき権兵衛の里へ向かう。入場無料。
「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる・・・」の俗謡で有名な権兵衛さんにちなんで作られた施設。平成元(1989)年のふるさと創生事業により、1994年5月開園。
園内にはゆっくり散歩が楽しめる築山林泉回遊式のみごとな日本庭園がある。有名な中根金作の設計。整い過ぎている印象。導水部の滝の造作がいまいち。
ズンベラ石。種まき権兵衛の里。
入口近くには、権兵衛さんのゆかりの品々や紀北町海山区の民俗資料を展示した「権兵衛屋敷」がある。和風としては徹底していない。
ズンベラ石の説明。種まき権兵衛の里。
上村権兵衛は当地の武士の家に生まれたが、父の兵部の死後は武士の身分を捨て、父の望みであった農家となり荒地の開墾をはじめた。しかしもともと武士であった権兵衛には何もかもが初めてのこと。慣れない手つきで見よう見まねの農作業は、種をまくそばからカラスに食べられてしまうほどで、近隣の農家の笑いものになっていた。それでもあきらめず懸命に農業を続けた権兵衛は、やがて村一番の農家になっていたという。
畑仕事では今ひとつでも、鉄砲の腕前は名人級だった権兵衛さんの評判は紀州藩主宗直の耳に届くほど。宗直の前で見事3発の弾を標的に命中。宗直が褒美に田を与えようとしたところ、権兵衛はこれを辞退し、代わりに村人の年貢を免じてもらって村人から喜ばれた。
馬越峠に大蛇が出ると聞くと、大蛇を退治するべく猟銃を持って山に入った。銃を撃ち、ズンベラ石を投げて見事大蛇を仕留めたものの、彼自身も大蛇の毒液を浴びてしまい、村人の介抱もむなしく元文元(1736)年12月に亡くなった。
「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」とは、まいた種をカラスに食べられてしまうことから、努力が実らないこと、無駄なことをしているという意味で、半ばあざけりのように思っていた。権兵衛が武士の末裔とは知らなかった。
入口で、便石山、馬越峠、天狗倉山、オチョボ岩、猪ノ鼻水平道を縦走する登山地図を入手。
世界遺産。熊野古道。始神峠道北側入口のさくら広場。紀北町紀伊長島区三浦。
熊野古道の始神(はじかみ)峠道北側登り口へ向かうと、さくら広場に誘導された。駐車場横にトイレあり、道路工事中だった。
中央の宮川第二発電所の上の低い鞍部が始神峠と思われる。
さくら広場から始神峠まで片道2㎞、約1時間で往復した。
始神峠道北側登り口。
発電所の横を歩いて、世界遺産部分の登り口に着いた。橋は4つほどある。江戸時代に橋はなかったと思われる。赤外線で利用者数をカウントしている。
国道42号線への道標。
国道まで50mまでと書いてあったので驚いた。確かに右下に国道と公衆電話ボックスが見えた。
始神峠。
標高147m。かつては茶屋があり、今も土台の石積みが残っている。サンショウウオを意味する「椒」(はじかみ)が峠の名前の由来。
この先で明治道と合流する。
始神峠の展望台から「紀伊の松島」(紀伊長島の島々)を眺める。
紀伊の松島の島々が熊野灘に浮かぶ優美な景色が一望できる。富士山も見える可能性がある。
始神峠。説明板。
越後の商人で文人の鈴木牧之は寛政8(1796)年2月3日(太陽暦では3月11日)にこの峠に立ち、「大洋に潮の花や朝日の出」、「待ちかねて鶯啼くか日の出潮」という2句を残した。
牧之は夜明け前の峠に立ち、東方からの日の出を待っていた。「海に昇る太陽は車輪のようで、鶯も左右で啼きかわしている」と記している。
12時ごろに、さくら広場へ帰着。展望がよいという北東の半島にある高塚山展望台へ向かった。
高塚山展望台からの風景。
熊野灘に突き出た岬の上にある穴場スポットで、標高74mの展望台からは紀伊の松島とよばれる島々の雄大な風景と美しいリアス式海岸が一望できる。
駐車場から10分近く歩いて展望台に至り、螺旋階段を登って台上に着いた。
高塚山展望台からの風景。
いわゆる紀伊の松島。東北の松島とは随分違う。
高塚山展望台からの風景。
始神峠方面。宮川第二発電所と山腹の水管などが見える。
このあと、熊野古道のツズラト峠道北登り口へ向かった。