ブヌン族の案内板。プクバヴァン・上エリア。
2016年12月3日(土)。屏東県。三地門。台湾原住民族文化園区。
ブヌン族はルカイ族居住地の北に接し、中央山脈とその東側に居住する。標高1000mから1500mの間にそのうち半分が住んでおり、原住民族の中で最も高いところに住居を構えている。
梅山社家屋。ブヌン族。
長屋形式。1938年に日本人建築家千々岩助太郎が調査したときは26人が居住していた。
入口側左右に木床寝室、左右の壁に窓とその下に火床がある。内部の中央は石板が敷かれた内庭、奥は粟などの穀倉になっている。
なお、千々岩助太郎は1983年に日月潭九族文化村で、原住民家屋の復元設計をしている。
梅山社家屋。ブヌン族。
内部に入ったが、ただ暗いだけだった。
息子の千々岩力氏(高岡法科大学学長)の「千々岩助太郎と台湾原住民族建築研究 : 研究こぼれ話」に1938年1月の高雄州のブヌン族住家の調査が言及されている。
父と助手1名のために警官1名とブヌン族の警官1名をつけてくれました。そのタマホ社はいわゆる蛮勇をもって有名で、1933年という日本領になって38年を経て最後に日本に帰順した部落でありました。
タマホ社の頭目家は、さすがに最後まで抵抗した部落として要害堅固な地形の中にあって、家は1家族26人が住む大規模で頑丈な要塞そのものであった。
日本酒などの土産を渡したのですが、「珍しい人が来てくれたので、今夜は酒盛りをしましょう。泊まりなさい。」と言われたのです。
しかし、昨日の警察駐在所の注意事項など思い出してどうしても帰ることに決めたのでした。
すると、突然、大人たちがバタバタと入口の扉や窓まで閉めて、真っ暗闇のなかに閉じ込められてしまったのでした。そのうち1羽の鶏が捕らえられて(鶏も豚も家の中で飼育していた)、「せっかく来て下さってお土産まで頂いたのに今夜酒盛りできないのが残念です。これを持って帰って下さい」、と丁重な挨拶とともに鶏が渡されたのであります。
扉や窓も開けられ、明るいホットした気持ちで堅い握手を交わして、帰路についたのでした。鶏を捕らえるために真っ暗にしたわけです。
「本当にびっくりした、殺されるかと思った」、と父が語っていたのを覚えております。
プクバヴァン・エリアから無料バスに乗車。
時間がないので、もう一つの伝統建築エリアのタマルワン・エリアへ向かう。
降車場所を迷ううちに、導入ゾーンのパパクアン・エリアまで来てしまった。仕方がないので、徒歩で、タマルワン・エリアへ向かい一番近いプヌン族エリアのみ見学した。
プユマ族少年集会所。
プユマ族エリアは修理中なのか、立入り禁止の黄色テープが張られていたが、テープの隙間から中に入った。
プユマ族少年集会所は台東市の卑南文化公園でも見た。
プユマ族は多くの強敵に囲まれており、集落の安全を守るために、年齢別に少年集会所を建て、防御能力を養成した。男子は12歳になると、集会所に入り、集団生活を始める。体力作りや狩猟などの訓練を受け、結婚時まで集会所で暮らす。
プユマ族は母系社会であるが、政治組織の基礎は男性の年齢階級制度である。
プユマ族少年集会所。
床やハシゴは竹材で組まれている。中心に炉が置かれている。
祖霊屋。プユマ族。
内部には、外祭台(酒瓢や猟物などを供える)、内祭台(酒瓢、ビンロウなどを供える)、粟、祭祀用火床、祭祀用酒醸造具、鹿角、鹿顎骨があった。
祖霊屋。プユマ族。説明図。
祖霊屋。プユマ族。説明図。
原住民族の集落。
プユマ、サキザヤ、クバラン族なのか不明。
見物客や人の気配はない。台風などの災害に弱いのだろう。
原住民族の集落。
15時40分を過ぎたので、塀東へのバス時刻を考え、入口へ戻る。
彩虹吊橋。
導入ゾーンとの境。
導入ゾーン。
暗くなりかけ、客も少なくなった。
駐車場付近のバス停時刻表。
塀東駅と原住民族文化園区を結ぶ直通バス路線がある。
入園時に、右下の16時00分を見ていたので、15時55分頃から待ったが、バスが来ない。
しげしげと見たら、出発(去程departure)といっても、塀東駅からの最終便だった。回程(return)の最終便が17時30分で、これが原住民族文化園区からの最終便。その前が15時30分。
時刻表が現地起点でなく、塀東駅起点で書いてあるとは思いもよらなかった。
17時30分まで待つわけにいかず、仕方なく15分ほど坂を下って、三地門バスターミナルへ歩いた。
運良く16時20分発の塀東バスターミナル行きに乗車でき、17時5分に塀東バスターミナルへ到着。5分ほど歩いて台鉄塀東駅へ。17時30分発の列車に乗り、18時に高雄駅へ着いた。