旗津フェリー乗り場。
2016年12月4日(日)。高雄市。
本日は昼に台南へ向かう予定。市議会駅から地下鉄に乗り終点の西子灣駅で下車。南西へ歩いて10分ほどでフェリー乗り場に着いた。休日は混むということもあり、8時ごろに着いた。
人と軽車両は入口が違う。待合室右端から入り、25元を支払う。
旗津フェリー乗り場。
船が到着すると、自転車やバイクが降りてくる。船内へ入り、2階の無蓋部へ向かう。
旗津フェリー。港の風景。
旗津フェリー。出航。
市内から続く丘の上に赤いレンガ色の旧英国領事館が見える。
高雄港北西部の風景。手前の小高い山が寿山、奥が鼓山かと思われる。
高雄港南部。
中央奥にうっすらと高雄85大楼が見える。ドックもあり、規模の大きな港湾ということを理解した。
高雄港。北の湾口部。フェリー港に近付く。
左に見学予定の旗后山とその頂上に旗後灯台が見える。
5分ほどの乗船。旗后山へ向かうため、大通りの廟前路ではなく、海岸沿いに道路を歩いた。
旗后山の登山道途中から海岸公園を見下ろす。
旗后山への登り口は狭い道が行き止まりになったところにあった。
旗后山頂上部にある旗後砲台・旗後灯台は入場無料である。
旗後砲台。入口付近の練兵区を見下ろす。
旗後砲台は清が1731年に砲台1座、烽火台3座、物見櫓1座などを建設したことに始まる。
1874年の牡丹社事件の後、台湾に派遣された欽差大臣の沈葆が1876年に、イギリス人建築家H・W・ハーウッドに設計させ、山上横長の珊瑚礁台地に新式砲台を造らせた。
長方形の構造物である砲台内部の空間は「目」の字型に区切られ、第一区域は練兵区、第二区域は連絡通路と弾薬庫、第三区域も練兵区であった。
砲台には4門のイギリス製のアームストロング砲が設置され、左右に砲座が1門ずつ、南側には2門配置された。
旗後砲台。南東方向への眺望。
旗後砲台。北西方向への眺望。
日清戦争の後半、1895年4月17日日清講和条約(下関条約)が調印、5月8日の日清講和条約発効後、割譲された台湾に近衛師団が派遣され、台湾占領を開始した。6月17日に台北で台湾総督府始政式が行われた後、19日に南進が始まったが、困難を極めた。
9月16日台南を目指す南進軍が編成され、10月21日、日本軍が台南に入った。11月18日、大本営に全島平定が報告され、日清戦争が終結した。
1895年10月15日午前6時55分、日本軍巡洋艦「吉野」「秋津州」その他からなる艦隊が旗後砲台に砲撃を開始した。
砲台の指揮官の劉成良は日本艦隊の砲撃の前に内陸の安平に逃げていたため、統率を失った砲台側は砲弾を5発発射したのみだった。
砲撃の後、14時30分に日本軍は上陸を開始した。そのとき既に砲台は放棄されており、砲台はすぐに占領された。
日本統治時代になると砲台は使われなくなり、廃墟となった。
旗後砲台。北の旗後灯台方向。
旗後砲台。西の練兵区方向。
旗後砲台。南東の高雄港方向。
遊歩道をさらに北へ進み、旗後灯台へと向かった。