江島若宮八幡神社。三重県鈴鹿市。
2017年5月13日(土)。
江島若宮八幡神社は鈴鹿市の白子港の北にある。強い雨降りのなか、大黒屋光太夫記念館へ向かう途中、白子港脇の道路を通ってみたが、小さい港で、釣り船屋、海産物土産屋などがある程度だった。
江島若宮八幡神社は明治42年に近隣の神社を合祀してできた神社であるが、江戸時代に白子などの廻船問屋たちが,航海の安全を祈願して奉納した絵馬が保存されており、廻船業で賑わった白子湊の繁栄と信仰を伝えている。大黒屋光太夫たちも出港前に御祈祷を受けたという。
本能寺の変の時には,この神社の前の浜から徳川家康が知多に脱出したといわれている。
江戸時代の白子湊は,紀州藩領で代官所が置かれ,藩米や伊勢木綿の積出港として栄えた。当地出身の大黒屋光太夫が1782年(天明2)白子を出港してのち遠州灘で遭難しロシアに漂着したのは,江戸への藩米輸送の途次のことであった。
伊勢商人は伊勢・尾張・三河の木綿輸送を確保・統制するため江戸で大伝馬町組と白子組を結成し、白子の積荷問屋や廻船問屋を支配した。天明年間から文化年間の白子組の千石船数は25隻に及んだという。またこれら3国以外にも大和国など内陸から木綿が関東地方へ送られ、関東からは九十九里浜の干鰯や雑貨が届けられた。白子の港は遠浅で千石船は沖への停泊を余儀なくされ、使い勝手の良い港ではなかった。
大黒屋光太夫記念館。鈴鹿市若松。
白子から北進し、西の脇道へ進入したが、狭い街中に入り込み、記念館を見つけるのに苦労した。
記念館は入場無料。展示室内撮影禁止。「記念館だより」、「顕彰会会報」を入手。
大黒屋光太夫(1751―1828)は、井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」で有名である。
光太夫以下16名を乗せた神昌丸は天明2年(1782年)に江戸に向けて白子から出港したが、暴風雨に巻き込まれ、アリューシャン列島・アムチトカ島まで流されてしまった。光太夫はシベリアを横断して当時の首都・サンクトペテルブルクまで行き、ロシア皇帝エカテリーナ2世から帰国の許しを得た。寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマンに伴われて根室へ上陸、10年ぶりに日本へ帰国した。
記念館では、企画展「北槎聞略でたどる光太夫の旅」が開催中だった。アムチトカ港にロシアから迎えの船が来たが、接岸時に大破。1年間かけて、光太夫たちは残材を利用し600石積の船を建造した。1791年5月28日に皇帝エカテリーナ2世の別荘で謁見。皇帝の手に光太夫は3度口をつけて拝謁の礼をおこなった。
大黒屋光太夫自筆のロシア文字墨書。ツル(鶴)。記念館リーフレットより。
展示室では、光太夫の筆によるロシア文字墨書とともに、井上靖の「おろしや国酔夢譚」の書籍と作家吉村昭の「大黒屋光太夫」の直筆原稿準備稿が展示されていた。
帰国後、光太夫は江戸城で将軍徳川家斉の上覧を受けた。列席した老中松平定信や蘭学者の桂川甫周らから質問をされ、ロシアでは日本の事を知っているかと尋ねられると、「ロシアでは桂川甫周、中川淳庵という人が知られている」と答えた。徳川家斉はこれを喜び、大黒屋光太夫の体験を聞き取るよう桂川甫周に命じ、「北槎聞略」が著された。
「北槎聞略」の価値を再発見し、一般に紹介したのは西洋史学者の亀井高孝で1909年頃に写本を発見し、1937年に出版した。亀井高孝は「標準世界史地図」の著書でもある。
光太夫のロシア体験談とロシア文字は支配層や知識人だけでなく、庶民の耳目も集めた。持ち帰ったロシアの文物・衣服・生活用具は鎖国下の庶民の好奇心を刺激し、当時各地で流行した見世物に出品され、引っ張りだこになった。
寛政7年(1795) 、名古屋大須七ツ寺内一乗院で行われた同船者小市の遺品展も盛況で、その模様を尾張藩士の高刀猿猴庵種信(1759~1831)が描いた図が展示されていた。
光太夫自筆のロシア文字は珍しがられ、光太夫は方々から求められてロシア文字の書を揮毫した。光太夫自筆のロシア文字墨書は現在までに40点ほどが知られており、大黒屋光太夫記念館には、そのうち20点が収集されている。
発見されたロシア文字はイロハ文字(13例)やツル(6例)と書かれたものが多く、それについで多いのが「フクジュ(5例)」である。
神戸城跡。鈴鹿市神戸。
神戸城跡は、鈴鹿市役所の南西300mほどにある。城下町の名残りの寺や狭い道路を辿ると、城跡横の神戸公園駐車場に着いた。
神戸城は戦国時代、国人領主神戸具盛により築かれ、安土桃山時代の初め(天正8年)神戸家の養子となった織田信長の三男信孝によって、五層の天守閣が築き上げられた。
神戸氏は、伊勢平氏関氏一族で、関実忠(関氏の祖)の六世にあたる関盛政は、14世紀中頃、鈴鹿郡関谷に拠って勢力を伸ばし、5人の子を亀山・神戸・峰・鹿伏兎・国府の各城に配して北勢第一の豪族に成長した。神戸に配されたのが長男盛澄である。
神戸盛澄は、14世紀後半に沢城を築城して鈴鹿・河曲郡のうち24郷を支配した。三代為盛は国司北畠教具の娘を妻としていたことと子がなかったため、北畠材親の子具盛を養子として後を継がせた。
四代具盛は、16世紀中頃に神戸城を築き、北勢方面から近江の東部まで武名をとどろかせた。
七代友盛は永禄2年(1559)の塩浜合戦などで武名を挙げ、不仲であった関氏とは、六角家の重臣で日野城主蒲生定秀の娘二人を友盛と関盛信の妻にする婚姻政策により仲を戻し、六角氏の味方となった。しかし、永禄11年(1566)の織田信長の第二回目の伊勢侵攻により、友盛は信長の三男信孝を養子とする条件で和睦し、元亀2年(1568)信長により隠居させられ、信孝が家督を継いだ。
八代信孝は、長島の一向一揆討伐・神戸城下経営・天守閣築造などを手掛けたが、父信長が本能寺の変で討たれて以後は、秀吉との勢力争いに負けて、天正十11年(1582)知多半島の野間大坊で切腹した。
友盛は、神戸家の名を残すために、従弟の高島勝政の息子政房を養子とし、政房は、蒲生家に仕え、神戸外記と名乗ったという。
神戸城概要図。江戸時代中期以降。
堀がめぐる城郭は東西に500m、南北に300mといわれ、現在は野面積みの石垣だけが当時を今に伝えている。
神戸城には、江戸時代神戸藩の藩庁が置かれた。関ヶ原の戦い後、一柳直盛が5万石で入ったが、寛永13(1636)年、伊予西条へ転封され、天領となった。慶安3(1650)年、石川総長が1万石で入封、享保17年(1732年)に近江膳所城主本多家の支流である本多忠統が河内西代から2万石で封じられて、延享3(1746)年から、神戸城の全面修築を開始した。以後、明治維新まで本多氏7代が居城とした。
政庁を兼ねた藩主御殿は二之丸に置かれ、城の実質的な中核であった。本丸と二之丸の東西に馬出しとなる三之丸と西曲輪が配された。
本丸北西に残る堀。
本丸への登り口。
本丸。
本丸には野面積みの天守台があり、かつては神戸信孝により金箔の瓦を乗せた5重6階の天守閣が築かれ、北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であった。天守閣は文禄4年(1595年)に解体され、桑名城に三重櫓として移築され神戸櫓と呼ばれたという。
以後、江戸時代を通じて天守は造られず、天守台のみが残っていた。
天守台の石垣は、未加工の自然石を使用した野面積みで、石塔類の転用なども見られる。
本丸。天守台上の休憩所から東の海岸方向。
本丸の東側には出枡形となる虎口を持っていた。
このあと、伊勢国分寺跡と鈴鹿市考古博物館へ向かった。