国史跡伊勢国分寺跡。三重県鈴鹿市国分町。
2017年5月13日(土)。
伊勢神戸城から史跡伊勢国分寺跡の南に隣接した鈴鹿市考古博物館の駐車場に着いたころ、雨が止んだ。
国分寺の甍を思わせる外観の考古博物館は、平成10年の開館で、国道1号線を通るたびに、道標案内を見ていた。入場料200円。室内撮影禁止。展示はたいしたことはなかった。体験学習型博物館を標榜している。
鈴鹿市は、畿内から東国への交通の要衝の地として古代から栄え、奈良時代には、「国府」と「国分寺」が置かれるなど、歴史と文化に富んだ地域である。
伊勢国分寺跡は、鈴鹿川中流域左岸(北岸)の標高43m前後の丘陵地に位置し、眺望がよく,水害の恐れのない土地にある。周辺には弥生時代の方形周溝墓等や古墳時代の遺跡も豊富で、この地方の先進地として早くから開けた。西南約7kmには伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)があり、さらに西南には鈴鹿関があって、古代の東海道のルート上に3遺跡はほぼ一直線に並んでいる。
「日本書紀」敏達天皇四(575)年の条に記されている「采女伊勢大鹿首」は、国分町周辺を根拠地とする豪族であると考えられる。さらに歴史上名高い壬申の乱(672年)の主要な舞台として、鈴鹿郡家から三重郡家に至る間に大海人皇子一行が休息した「川曲の坂下」は、当地に残る字名や当地が往時の有力豪族大鹿氏の拠点と考えられ、伊勢国分寺も河曲郡一帯を治めていた郡司級の豪族
である大鹿氏の強い影響があったのではないかといわれている。また、この一帯は延喜式に見る東海道河曲駅家の推定地とされ、国分寺跡の南側の狐塚遺跡は奈良時代始めころの河曲郡衙と推定されている。
戦国の騒乱でほとんど焼失し、寛政年間(1789~1801年)の『東海道名所図絵』にはこの地に「国分寺」の名があり、早くから伊勢国分寺跡と知られていたが、現在は講堂の礎石の一部が残るだけである。
中門跡。
僧寺跡の寺域は180m四方で、築地塀をもって区画する。主要伽藍として、寺域の西寄りに南門・中門・金堂・講堂・僧坊が南から一直線に配されており、東大寺式伽藍配置と見られる。寺域の東寄りでは、北東院・小院・掘立柱建物などが配されていた。このように院を配する形式は、全国の国分寺でも珍しい例になる。塔・鐘楼・経蔵はまだ確認されていない。
講堂跡。
経典の講義・教説などを行う建物。金堂の北方22mに位置する。基壇は掘込地業で、東西32.7m・南北20.6m。基壇化粧は、塼積または瓦積・塼積の併用。柱など基壇上の建物の詳細は明らかでないが、桁行7間・梁間4間と推定される。
基壇は伽藍の中でも残りが良い。
講堂跡。説明板。
北東院跡。推定・食堂跡。
寺域北東部に築地塀で区画された区域。範囲は東西64m・南北90m。北東院中央部では、食堂と見られる大型建物が検出されている。周囲には食膳具等を廃棄した土坑が密集する。
講堂付近から南の鈴鹿市考古博物館を眺める。
大正12年建立の標柱、昭和45年建立の標柱と案内板がある。
佐佐木信綱記念館。鈴鹿市石薬師町。右隣は佐佐木信綱生家。
鈴鹿市考古博物館から西の東海道五十三次44番目の宿場石薬師宿方面へ向かい、国道1号線で迷いながらも、佐佐木信綱記念館の駐車場に到着。
佐佐木信綱記念館は旧東海道沿いに佐佐木信綱の生家を昭和45年に移築し開館、資料館は昭和61年に完成した。
唱歌「夏は来ぬ」の作詞者、歌人、国文学者として有名な佐佐木信綱(1872~1963)の記念館には、昭和12年の第1回文化勲章をはじめ、信綱の著作や遺品を展示する資料館・生家・蔵・文庫がある。
佐佐木信綱は短歌結社「竹柏会]」を主宰し、木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮、相馬御風など多くの歌人を育成。国語学者の新村出、翻訳家の片山広子、村岡花子、国文学者の久松潜一も信綱のもとで和歌を学んでいる。
また、唱歌「夏は来ぬ」、童謡「すずめ雀」(滝廉太郎作曲)、軍歌、北海道から九州までの学校校歌等の作詞を多数手がけた。地元石薬師小学校の校歌が戦前編と戦後編が紹介されていたが、まったく別物になっていて興味深かった。
資料館から生家へ向かうドアの先に卯の花があった。
佐佐木信綱が作詞した唱歌「夏は来ぬ」の詩に、「卯の花の 匂う垣根に時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」とある。
佐佐木信綱生家主屋前の庭。井戸と卯の花。
佐佐木信綱生家主屋。国登録有形文化財。
佐佐木信綱は明治5年(1872)に石薬師に生まれ、10年(1877)までの五年間をこの家で過ごした。主屋は木造切妻造平入、桟瓦葺の町屋で、間口12m奥行10mのつし二階建。正面、二階ともに細い格子を入れた仕舞屋の表構えを見せる。内部は土間に沿って二列に居室を配する。
明治初期の建築後、増築、改修を重ねた。旧石薬師宿に残る数少ない町家。
佐佐木信綱生家主屋内部。
北列最奥が主座敷でトコやトコ脇を構える。
石薬師文庫閲覧所。国登録有形文化財。
木造平屋建、スレート葺、建築面積29㎡。L字形棟の切妻造スレート葺で、入隅に下屋を設け、玄関とする。クリーム色のモルタル外壁に大きく窓を穿ち、明るい内部空間をつくる。
昭和7(1932)年、佐佐木信綱は還暦の記念として青年たちのために、洋風建築の図書館を寄付した。
国道1号線南側にある石薬師寺薬師堂へ。
石薬師寺薬師堂。三重県指定文化財。
石薬師宿の名の由来となった石造薬師如来を祀る堂である。寄棟造、本瓦葺で、桁行三間、梁行四間の堂の四面に縁をめぐらし、正面に向拝一間を設ける。寛永6年(1629)建立。三重県内では例の少ない近世初期の寺院本堂である。当初は堂内を内陣と外陣に二分していたが、寛政年間に屋根、内陣などの修理改造を行い、この時に内外陣境の結界を撤去して、現在のように堂内を一室に改め、また結界の建具を正面の建具に転用している。
寺伝によれば、神亀3年(726年)泰澄が、当地で巨石の出現を見、薬師如来の示現と悟り、草庵を設け供養したことが、当山の開創とされている。その後弘仁3年(812年)空海(弘法大師)が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い、人々の信仰を集めたことにより、嵯峨天皇(在位809年– 823年)は勅願寺とし、荘厳な寺院を建立し、名を高富山西福寺瑠璃光院と称していたと伝える。
天正年間(1573~1592年)の兵火により焼失。寛永6年(1629年)に、当時の神戸城主一柳監物が、諸堂宇を再建した。
石薬師寺薬師堂・石仏の説明板。
石仏は花崗岩で像高190cm、寺伝によれば弘法大師が、地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆたかで、薬師仏として親しまれてきた。平素は秘仏であるが、12月20日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安時代後期の作。
このあと、西の白鳥塚古墳へ向かう。