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三重県鈴鹿市 加佐登神社 白鳥塚古墳 荒神山観音寺 吉良の仁吉の碑

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加佐登神社。三重県鈴鹿市加佐登。
2017513日(土)。
石薬師から白鳥塚古墳のある加佐登へ向かった。JR関西線では加佐登駅から山が多くなる印象的な地名である。加佐登神社下に駐車し、長い石段の坂を登ると、神社の拝殿がある。
 
加佐登神社は、日本武尊を主祭神とし、古来、御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれ崇敬されてきた。日本武尊の能褒野(のぼの)陵墓と伝えられた白鳥塚古墳の横に鎮座し、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖をご神体として祀ったのが始まりという。
古代この地は景行天皇が、行在所を置いたという伝承から、高宮の里とも呼ばれ、付近には綺宮跡や宝冠跡・宝装塚など多くの古い塚が残っている。
 
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白鳥塚古墳への参道入口石碑。
拝殿の北西にあるという白鳥塚古墳へ向かったが、道を間違えたのか、南西に下り、広い平地に下りたつと参道があったので登っていった。拝殿付近から北西に古墳へ直行する道があったようだ。
 
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白鳥塚古墳。県史跡。
正式名称は白鳥塚古墳1号墳で、三重県下最大の帆立貝式古墳である。墳長78m、後円部墳径67m、墳丘高9m、前方部墳長16.4m、幅27m。最下部に基壇を設け、その上の墳丘は2段構造となっている。5世紀前半の築造とされ、被葬者は鈴鹿川流域の首長とされる。
 
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白鳥塚古墳。県史跡。
日本武尊を祭神とする加佐登神社の北西にある白鳥塚古墳は命の墓といわれ、その霊が白鳥となって飛び去ったという伝説伝説から、白鳥塚と呼ばれた。
本居宣長や平田篤胤ら江戸時代後期の国学者の多くが、白鳥塚を古事記にあるヤマトタケルの能褒野(のぼの)陵墓として最有力視した。明治12年(1879年)に宮内省はそれを覆し、丁子塚(現亀山市)を治定した。以後、丁子塚がヤマトタケル陵墓(能褒野王塚古墳)とされている。
 
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白鳥塚古墳。県史跡。
墳頂へ登る道はあるが、周囲はロープで囲まれている。時計回りに一周することができる。西側は下界への見晴らしが良い。
 
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白鳥塚古墳のある山。加佐登調整池東南から眺める。
参道へ下りて、塀を乗り越えて加佐登調整池脇の車道を神社の駐車場へ帰った。
加佐登調整池脇の車道を西へ1.5㎞ほど進み、荒神山観音寺へ着いた。
 
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荒神山観音寺。
真言宗御室派の仏教寺院。山号は高神山(こうじんやま)。嵯峨天皇の時代弘仁3812)年に,弘法大師が日本武尊の心霊を仏像として祀り,神事山(こうじやま)と称したのが始まりという。
創建時は、紅葉山高宮寺と呼ばれ、加佐登神社周辺にあったとされる慈悲山寺(廃寺)の末寺であったという。
 
中世に衰退するが、寛永10年(1633年)、伊勢神宮参拝の途上で失明した奥州出羽の行者・荒沢順海が、当寺に祈願したところ開眼全癒したことからここに留まり、異母姉である春日局(徳川家光の乳母)の支援を得て再興した。春日局は上洛した際に参拝し、鐘楼の梵鐘と仏像5体を寄進している。慈悲山寺が衰えたため、元禄4年(1691年)には高野山の末寺となり、高野山の一字をうけて高神山へ改称。寛保3年(1793年)には僧・宥信が現本堂を建立した。
 
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荒神山観音寺。説明板。
本堂は修理中であった。奥の境内に吉良の仁吉の碑がある。
 
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吉良の仁吉の碑。
吉良の仁吉は、三河の寺津一家3代目。初代治助のもとで清水次郎長が修業して以来,清水と寺津は同盟関係にあり,寺津は清水一家の前進基地になる。仁吉は草相撲の大関をはった大男で,度胸がよく,御油玉吉,神戸長吉と並んで「三吉」と称された。慶応2(1866)4月神戸長吉との縁で荒神山の喧嘩の助勢を頼まれ,穴太徳,黒駒勝蔵,雲風連合の博徒集団に対し清水勢22名を率いて斬り込み,鉄砲で撃たれて絶命した。
 
鈴鹿の荒神山は春日局縁故の神社として栄え,加佐登神社の高市(祭礼)では恒例として賭博場も開設され、「千両かすりの賭場」として知られた。
慶応2(1866)4月、ともに伊勢の博徒である神戸長吉(かんべのながきち)と穴太徳(あのうとく)の間に荒神山の賭場の縄張り争いが起き、神戸と助っ人22名に対して穴太徳の一家とその助っ人(黒駒党含む)130余名が荒神山に激突した。
神戸側の助っ人であった吉良の仁吉の死の報に兄弟分の清水次郎長は東海道の博徒480余名を動員。伊勢の神社湾に2隻の船を乗りつけて安濃徳と後盾である伊勢古市の丹波屋伝兵衛に決戦を挑むが両者とも謝罪したため和議となった。
 
神戸長吉と安濃徳との縄張り争いは「血煙荒神山」として講談や浪曲などで取り上げられ、浪曲師・広沢虎造は喧嘩で憤死した吉良の仁吉の碑を建立している。
 
このあと、南西の伊勢国府跡へ向かった。

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