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三重県鈴鹿市・亀山市 国史跡・伊勢国府跡 能褒野王塚古墳(能褒野陵)。

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国史跡・伊勢国府跡。位置図。三重県鈴鹿市広瀬町。
2017513日(土)。
荒神山観音寺から南西2㎞にある伊勢国府跡へ向かった。史跡の案内標識を左折200mほど南進すると道路の東側に駐車場がある。国府の政庁跡は道路西側の畑地の森の中にある。
 
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国史跡・伊勢国府跡。説明板。
伊勢国府跡は長者屋敷遺跡として古くから知られ、伊勢国分寺跡から西7㎞の、鈴鹿川支流安楽川左岸の河岸段丘上の畑地にある。
平成4年度からの調査により政庁遺構や大型瓦葺礎石建物群が検出され、奈良時代中ごろから後半の伊勢国府跡であることが明らかとなった。政庁は基壇が良好な形で残っており、また、政庁の北方では方格地割が確認されるなど国府の全容がわかる全国的にも非常に貴重な遺跡である。
 
ただし、この国府は奈良時代末から平安時代初頭には廃絶したとみられ、廃絶後、国府は鈴鹿川の対岸に地名として残る南へ約3.5kmの国府町に移転したと考えられている。総社と伝えられる国府町の三宅神社遺跡周辺では奈良時代後半から平安時代にかけての大型掘立柱建物等の遺構が確認されているが実態はまだ明らかではない。
 
遺跡北西部には「北方官衙」の存在が確認された。一辺120 m四方の区画と幅12 mの道路で構成される国府に関連する区画(方格地割)があり、政庁を南に内包した東西4 区画,南北3 区画の存在が推定されている。
この方格地割の区画内には計画的に配置された瓦葺礎立建物群が確認されており,国司の館や曹司(実務の場)などの国府に関連する官衙施設と考えられる。
中心の道路(南北大路)は幅が12 mではなく,24 mであることが判明した。全国的に見ても,このような平城京等の都城の条坊にも類似した区画がともなう国府は,陸奥国府でもある多賀城跡が知られるくらいで,政庁と同様貴重な例といえる。
 
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国府政庁跡。
伊勢国府の政庁は,正殿・後殿・脇殿などからなり,周囲には南北約110m・東西約80mの築地塀がめぐらされていた。政庁の建物はすべて瓦葺礎石建物で,ほぼ正方位に揃えられ,柱間は12 尺あるいは10尺などの完数尺が用いられている。
建物の配置や規模は近江国府の政庁に酷似している。正殿・後殿の基壇は,現在でも森の中に1m ほどの高まりとして残っている。地表にその痕跡を留めることが少ない国府の遺構としては,全国的にも貴重な例といえる。
正殿の基壇は地下に約70cm 掘り下げた掘込地業ののち,地上約1 mの高さまで版築工法によって築かれたことが分かった。後殿もほぼ同様であった。
 
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国府政庁跡。説明板。
政庁の西には,政庁とほぼ同じ大きさの区画と建物が見つかっており,政庁の機能を分掌し,補完する施設があったと考えられている。伊勢国は,延喜式に記される国の四等級のうち,最上位である大国にあたり,さらには斎宮や鈴鹿関など特別な役所を有しており、政庁に認められる格式の高さは当時の伊勢国が置かれていた状況を物語る。
 
もっとも、政庁の建物群は屋根に瓦が葺かれ,柱に丹塗りがされるところまで作業が行われながら,基壇の化粧が施されておらず,未完成であったと考えられる。北方官衙も整然と地割がなされているにもかかわらず,建物群や築地等の整備は全体には及んでいない。政庁南方の広大な土地はほとんど手付かずのままで、この長者屋敷遺跡は国府としては,完成の段階には至ってはいなかったと推定されている。
 
西へ約1㎞ほどの能褒野王塚古墳へ向かい、古墳東南の「のぼのの森」公園駐車場に着いた。
 
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能褒野王塚古墳(能褒野陵)。亀山市田村町。
丁子塚(能褒野王塚)は、全長約90mの前方後円墳である。伊勢地域では、船形埴輪が出土して全国的に有名になった松阪市宝塚1号墳に次いで規模が大きい。江戸時代には丁子塚とよばれていたが、明治12年に「日本武尊能褒野墓(やまとたけるのみこと・のぼのはか)」として治定され、それ以来「陵墓」として管理されている。
 
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能褒野王塚古墳。説明板。
 
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能褒野王塚古墳。位置図。亀山市歴史博物館。
能褒野王塚古墳は、鈴鹿川支流の安楽川と御幣川(おんべがわ)の合流点の東方左岸上、標高40m程の中位段丘の端部に位置する。
 

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能褒野王塚古墳。古墳周辺平面図。亀山市歴史博物館。
墳形は前方後円墳で、前方部を南東方に向ける。墳丘長90m、後円部径約54m、前方部長さ約40m、幅約40m。4世紀末頃の築造とされる。
 
墳丘周囲には外溝・外堤が巡らされているが、現在に見るものは壮大さを増すため、1880年(明治13年)に新設されたもので、元来の様子は明らかでない。埋葬施設は詳らかでないが、竪穴式石室であった可能性が指摘される。
 
宮内庁では能褒野墓の陪塚5基、域内陪冢9基の計14基を治定するが、実際には陪塚ではなく古墳時代後期に下って築造された古墳であると考えられている。
 
出土遺物に鰭付円筒埴輪片があり、鰭付埴輪の分布と伝播経路から、大和盆地の王権が伊賀を経由して、美濃・尾張地域へ進出する拠点としてこの地域へ積極的に介在し、鈴鹿川流域の首長が北大和の王権の配下に組み込まれる中で、鰭付埴輪を含む首長墓が導入されたものと考えられている。
 
このあと、亀山温泉・白鳥の湯(入浴料300円)に入浴後、道の駅「関宿」へ向かった。

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