関の地蔵院。本堂。重文。三重県亀山市関町。
2017年5月14日(日)。
道の駅「関宿」で起床。車中泊の車は多い。関東ナンバーの老夫婦が、駐車枠から歩道まではみだして、煮炊きをしていた。こういう非常識な人が存在するので困る。
本日はまず、東海道47番目の宿場町関宿の見学。東海道で唯一、往時の町並みを色濃く残していることから、昭和59年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。20年ほど前に登山の帰りに寄って、鈴鹿の関跡を見学し、関宿銘菓「関の戸」を食べた記憶がある。
道の駅からは遠いと分かったので、街並みの北西にある観光駐車場に駐車。9時頃だったので、まだ車も人出も少なかった。
街並みのほぼ西端にある地蔵院から見学。
天平13年(741年)行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置し、創建したと伝える。
本堂は江戸出開帳や地元からの寄付などによって資金を集めて元禄13年(1700年)に建立された。大工は地元であるが建築の質がよく、造営関係の文書が保存されていることも貴重である。
地蔵院。愛染堂。重文。寛永7年(1630年)建立。
地蔵院。鐘楼。重文。寛永21年(1644年)建立。
地蔵院門前の街並み。
会津屋は関宿を代表する旅籠で、もとは山田屋といい、関の小万が育ったことで知られる。
前の道路が観光バスが駐車場へ向かう通路となっているのは、いただけない。
福蔵寺。織田信孝の墓。
織田信孝は織田信長の三男で伊勢神戸城主であった。
福蔵寺。織田信孝の墓。説明文。
福蔵寺。関の小万の記念碑。
鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女として名高い。小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と言ったが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。身重の妻は夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く看病し、女はそこで女の子を産んだ。これが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。
小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をする。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで武術の修行に励むようにした。
天明三年(1783)八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたのであった。これにより、関の小万の名前は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)正月十六日、三十六歳で死んだ。墓は福蔵寺にある。
高札場跡。
関宿旅籠玉屋歴史資料館。
玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの、関宿を代表する大旅籠のひとつであった。現在は江戸時代の貴重な旅籠建築として修復され、亀山市文化財に指定されている。内部は、当時使われていた道具や庶民の旅に関係する歴史資料、歌川広重の浮世絵などが展示される旅籠資料館となっている。
白壁に宝珠の意匠が印象的である。
百六里庭・眺関亭からの景観。鈴鹿峠方向。
最近造られた公園で、関宿が江戸から106里余りあることから名付けられた。
通りに面した建物「眺関亭(ちょうかんてい)」2階ベランダからは、鈴鹿峠や関宿の家並みが一望できる。
百六里庭・眺関亭からの景観。江戸方向。
北東にある国史跡の山城「正法寺山荘」へ向かう。