正法寺山荘跡。国史跡。進入路の車道から見下ろす。三重県亀山市関町。
2017年5月14日(日)。
正法寺山荘は鎌倉~戦国時代に鈴鹿地方を治めた豪族・関氏一族の宗家である関盛貞が、永正年間(1504~21年)の初めごろに創建した寺・館・支城を兼ね備えた機能を持つ遺構で、関宿の北、鈴鹿川の支流、小野川西岸にある標高105mの河岸段丘上に位置し、西にそびえる羽黒山を背に、三方を小野川が流れ、自然の要害の地となっている。
関氏一族は室町時代には鈴鹿川一帯に勢力を伸ばした北伊勢随一の有力国人であった。
関氏は伊勢平氏の末裔で、鎌倉時代に関谷とよばれた鈴鹿庄の地頭となり、勢力を築いていった。
室町時代初頭からは、亀山・神戸・峯・鹿伏兎・国府の各城に分居して、関の五家といわれた。
戦国の動乱期には、中・北伊勢地方にまで勢力を伸ばしていたが、やがて織田信長の西上によって関一党はつぎつぎと信長に降り、離散した。天正2年(1574)、長島の一向一揆に対する信長の征伐は激しくなり、関一党および家臣団は、信長のために離散に追い込まれていった。
関盛信・一政父子は蒲生氏郷の麾下となり、秀吉の九州征伐や小田原征伐に出陣している。蒲生氏郷の会津転封によって、白河城に赴き、白河城5万石を領した。関ヶ原の戦いのときには、はじめ西軍で、のち東軍に属し、戦後、旧領亀山城に移り、関一政は亀山藩3万石の藩主となった。のち伯耆黒坂藩に移封されたが、家中内紛により、元和4年(1618)改易となる。子孫は近江国蒲生郡において五千石を与えられて寄合に列し、家名を伝えた。
正法寺山荘跡。説明板。
正法寺山荘跡。北の墓方向。駐車スペースから。
正法寺山荘跡。中央土壇方向。駐車スペースから。
東西130m、南北140mの平坦地に所在する。中央土壇は寺の中核部分とみられ、周囲には土塁が残る。発掘調査により、敷地からは四棟の建物跡・整然と石積みされた排水溝・井戸などが検出された。
本来の径路は、小野川右岸へから土壇下の池へ至り寺へ登る方向で、見学方向とは逆になる。
正法寺山荘跡。説明板。
正法寺山荘跡。中央土壇の中央から入口方向。
今は約200本の桜の名所であり、多くの花見客で賑わうという。
正法寺山荘跡。中央土壇の北東端から入口方向。
西側の標高290mの羽黒山から派生した尾根が見える。羽黒山は山中に巨岩が連なり、羽黒権現が山腹の岩屋に祀られており、麓からは聖地とみなされた地域であり、平安時代後期から、正法寺のあたりには前身となる寺院が設けられていた痕跡がみられる。
また、「満済准后日記」には、関氏と室町幕府との抗争において正長2(1429)年に幕府方によって焼き払われた関氏の城として「羽黒」の名がみられ、羽黒山周辺には早くから城砦が構えられたことが想定される。
池と石垣。中央土壇の南。
正法寺山荘と関氏。説明。亀山市歴史博物館。
有名な連歌師宗長などもここを訪れ、歌会を開いていた。
軒丸瓦。平安時代後期。正法寺山荘跡出土品。亀山市歴史博物館。
正法寺山荘の前身寺院の瓦とみられる。
軒先瓦。室町時代。正法寺山荘跡出土品。亀山市歴史博物館。
正法寺山荘の前身寺院の瓦とみられる。
天目茶碗。輸入陶磁器。犬型土製品。室町時代。正法寺山荘跡出土品。亀山市歴史博物館。
発掘調査では、北宋銭・明銭・釘・瓦・天目茶碗・青磁・白磁・染付皿などが出土した。
東の亀山城方面へ向かう途中、野村一里塚へ立ち寄った。
野村一里塚。国史跡。亀山市野村。
三重県には旧東海道に沿って、12ヶ所に一里塚が設置されていたが、現存するのはこの野村一里塚のみとなった。また、もともとは道の両側にあったが、現在は北側だけが残っている。
塚の上には、歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っている。
このあと、亀山城跡北にある亀山市歴史博物館へ向かった。