深鉢土器。縄文時代中期。亀山市歴史博物館。三重県亀山市若山町。
2017年5月14日(日)。
沢遺跡(山下町)から出土した土器。炉の底に敷かれていた。
亀山市は文化的に好感がもてる自治体である。平成22年度に完成した亀山市史はITを利用して、HPで公開されており、詳細な市史を読むことができる。当時、新聞で紹介されたので、少し読んでみたが、便利な電子図書である。
亀山市歴史博物館は亀山城跡の北西約500mの丘陵地にある。北の図書館の駐車場は満車だったが、南の博物館の駐車場は空いていた。入館料200円。鈴鹿市と違い、館内撮影可。
この丘陵地は、亀山古城跡で、戦国時代に北伊勢の覇者であった関氏の本拠であった。最近の調査によると、この丘陵だけでなく、近世の亀山城あたりを含む広大な城域を有していたらしい。
亀山古城は文永2年(1264)に関実忠が築城し、天正元年(1572)に織田信長によって関盛信が追放されるまで、関氏の本拠であったとされる。天正11年(1583)に羽柴秀吉によって攻められ落城している。この亀山城攻めは、加藤清正、細川忠興、堀尾吉晴、浅野長政、山内一豊、高山重友(右近)といった秀吉政権下で有力大名となった武将たちが戦功を挙げ出世を果たした戦いとして知られている。
これまでは、歴史博物館裏手の「古城」と称される小丘陵にあり、天正18年に亀山城に入った岡本良勝が、旧来の城が手狭であることから旧在地の東南に移転拡張して新城を築いたとされていた。しかし、近年の発掘調査により、近世の亀山城の範囲にも空堀や方形の郭が確認されており、その面積は近世亀山城を上回るものであったと考えられている。
北勢地域は東西文化の影響を常に受けながら文化を展開させてきた。
亀山市域では、縄文時代早期文化が華々しく幕を開けたが、これに次ぐ前期の遺跡はほとんど見当たらない。ところが中期に入ると地蔵僧遺跡(川崎町)・沢遺跡(山下町)など鈴鹿川流域を中心に広範囲に展開し始める。
中期文化の開花にも東西からの文化の影響が色濃く反映していることが知られる。
沢遺跡では土器を敷き詰めた炉跡が発見されているが、これは、中部日本で中期前半段階に既に行われていたものであるという。いずれも中期後葉というやや遅れて各種文化が取り入れられている亀山市域の資料は、こうした地域から何らかの方法で情報が伝えられた結果だと考えられる。
北勢地域の縄文土器の型式については、東西日本の多方面からの伝播が確認できる。例えば中期前半の土器型式は瀬戸内海地方を中心に広く分布する船元式土器が主体となるという。後半になっても、同じく瀬戸内海地方に中心のある里木Ⅱ式土器が出土する。
ところが、この後の時期になると、状況は複雑に変化する。
西日本の縄文土器分布圏の亀山市域西端に位置する沢遺跡からは東海地方の影響を受けた土器が出現し、新たな文化圏を形成するようになる。沢遺跡の石囲炉から出土する土器は尾張、美濃地域との関係の深さを示すとされ、遺構、遺物共に当該地域の影響下にあったことになる。
しかし、中期終末期から後期にかけての時期になると、再び西日本との関係が深まり、沢遺跡とさほど離れていない於登志(おとし)遺跡(山下町)では当該期の関西地方の標識的土器型式である
北白川上層式土器が確認され、西日本優位の土器型式が定着するという。
土
製耳飾り。縄文時代。於登志(おとし)遺跡出土。
土製耳飾り装着復元図。
土製耳飾り。説明文。
方形周溝墓。平面形模式図。弥生時代~古墳時代。
弥生時代に入ると中期には方形周溝墓と呼ばれる新しい墓制が近畿地方から導入され、後期以降になると方形台状墓や前方後方型墳丘墓が成立し、地域独自の墓制が成立する。
方形周溝墓とは四辺に設けられた溝による区画を墓域とする低墳丘墓のことである。
鈴鹿川左岸上流部に位置する大鼻遺跡では陸橋部の位置や構造で特徴的な方形周溝墓が確認される。方形周溝墓は中期中葉から後期初頭に属し、11基の墓は西・中央・東の三群に分かれて設置されている。三群に共通すると想定されている特徴をもつ方形周溝墓は「半辺陸橋型」と仮称され、「長さが一辺の半分ほどの周溝が各々一辺にみられること」と定義されている。
三重県全体では中期前葉に出現し、後期まで存続する特徴だという。
その後、「中央陸橋型」(中央に「道」として機能する陸橋が設けられた型式)が後期末に出現し、続いてさらに「中央突出型」(墳丘の一部として中央に突出部が付加された型式)が形成され、「道」が祭祀行為の中で特別の意味を持つ段階で突出部としての発達を遂げたものと解釈された。
さらに最終末期には突出部をも周溝が巡る「前方後方型方形周溝墓」の出現へと推移してゆく。
中期以降の亀山市域の弥生文化の様相は、現状では方形周溝墓という埋葬施設からしか分析できないが、「半辺陸橋型」とされる一定の共通性をもった方形周溝墓が、基本的に北部に陸橋部をもって築造されている点は信仰、宗教、文化に一定の共通性を持った人々が当該地に住み始めていることを示していよう。
なお、東海地方の弥生時代の土器を代表するS字甕の発祥は亀山市域の遺跡にあるとされる。
画文帯神獣鏡。復元模造品。井田川茶臼山古墳出土。
画文帯神獣鏡の同型鏡出土分布図。
井田川茶臼山古墳が語ること。
井田川茶臼山古墳は、現在はみどり町となっている井田川丘陵の尾根の頂上、標高68.8mにあった古墳である。古墳の形は、前方後円墳であった可能性がある。内部は、横穴式石室で、西に口を開く。石室は、九州北部地域の石室からの影響を受けた横穴式石室で、東海地方では井田川茶臼山古墳以後、本格的に横穴式石室が取り入れられる。しかし、伊勢湾岸への導入期の横穴式石室は同質ではなく、北勢地方においては、やや側壁がふくらみをもった平面形をもった石室がその後も展開する。これらは、石室の導入者層の違いが石室のかたちにあらわれたものとみることができる。
石室内には、2つの石棺と、木棺をおいた見られる平らな石があり、少なくとも3体の遺体が安置されたものと考えられる。
副葬品は、石棺の内部におさめられたものと、棺の周囲におかれたものに分けられる。これら遺物のうち、土器は、6世紀前半を中心に6世紀中頃までのものと考えられ、井田川茶臼山古墳が6世紀前半につくられたことをもの語る。なお、これらの土器は、装飾付台付広口壷など、東海地方の特徴が強く見られる。
画文帯重列式神獣鏡、銀象嵌竜文捩環頭大刀などは、ヤマト政権から各地域の有力な王に分け与えられたとものと考えられるが、この時期のヤマト政権は、大王を中心とした有力な王の政治同盟から、大王を頂点とする強固な王権確立にむけて再編が進められていたとみられており、井田川茶臼山古墳の遺物もこの流れの中でとらえることができる。
この時期、鈴鹿川流域においても、古くからこの地域に基盤をもつ勢力あるいは、ヤマト政権に急速に近づいた新勢力に、東日本の勢力と強い関係を持ちたいヤマト政権が、鈴鹿川流域の王に特別な待遇を与えたのであろうか。少なくとも、井田川茶臼山古墳のつくられた6世紀前半ごろに、東海地方において大きな転機があったことはまちがいない。
井田川茶臼山古墳は今。
みどり町にある「古墳公園」。
重弁蓮華文軒丸瓦。飛鳥時代。大鼻遺跡。
瓦。伊勢国府跡(長者屋敷遺跡)出土。作成者のスタンプがある。
令義解にみられる三関(鈴鹿関ほか)。
令義解は養老令の官撰注釈書で、829年から清原夏野らが勅命により編纂にあたり、令の解釈を統一し、834年から施行した。養老令の本文は本書により知ることができる。
令義解にみられる三関。
複弁蓮華文軒先瓦。伊勢国分寺跡出土。奈良時代。