正元元年(1259年)某袖判寄進状(複製)。石上寺中世文書。亀山市歴史博物館。
三重県亀山市若山町。
2017年5月14日(日)。
解説。
石上寺(せきじょうじ、和田町)に伝存する石上寺文書は、三重県の文化財に指定されており、だいたい次のようにグループ分けできる。
(1)那智山執行職補任(しぎょうしきぶにん)のこと。(2)寄進。(3)禁制(きんぜい)。(4)祈禱巻数返事。(5)重書目録。
伝存する石上寺中世文書の特徴は、同じ発給者からの禁制や巻数返事が年月日を違えて継続していたり、南北朝時代には、南朝方・北朝方の両方が権力や財力をもって石上寺を保護する外護者になっていることから、中世において政権との広い関わりがあったことがうかがえる。
天正11年2月亀山城・峯城攻め状況図。
従来、この一連の戦いは「賤ヶ岳の戦い」と称して羽柴秀吉と柴田勝家の戦いととらえがちである。
戦争の中心は秀吉と勝家で展開されたものの、あくまで織田信雄と織田信孝の家督をめぐる戦いで、戦闘地域も賤ヶ岳に限らず、北伊勢・美濃・北近江・越前と広域で展開されたものであった。
したがって、一連の戦闘は「天正十一年の戦い」とよぶのがふさわしい。
天正10(1582)年6月の清洲会議によって織田信孝は三法師(後の織田秀信)の後見役となるが、信長の死後に織田家中で台頭した羽柴秀吉と敵対した。同年10月18日付の秀吉からの信孝弾劾状は、信孝の家老で峯城主の岡本良勝らに宛てて出されている。
12月に秀吉が挙兵して信孝の居城・岐阜城を包囲して和議に至ると、三法師の引き渡しに加え、信孝の母(坂氏)、岡本良勝の母も人質として秀吉に送られた。良勝はこれを機に長年仕えた信孝に背いて秀吉側に通じた。
柴田勝家は信孝との結束を強め、さらに北伊勢の滝川一益を味方につけた。天正11年(1583年)、柴田勝家に呼応して信孝が再び岐阜城で蜂起すると、秀吉側に立った伊勢亀山城の関盛信や峯城の岡本良勝はそれぞれ滝川一益に攻められ、落城した。峯城はその後、秀吉勢の大軍に包囲されて奪回されるが、伊勢の国持大名となった織田信雄に与えられ、その配下の城となった。
亀山城主関盛信は、家督の継承を考え、家臣らを集めて意見を求めると、重臣の葉若氏は次男一政を押し、岩間一貞は三男盛房を推挙する。一政は不具者で比叡山延暦寺に入山していたというが、この時には盛信に同行して四国攻めにも参加していたと思われる。盛房は四つの乳房を持ち、関家は代々四つの乳房がある者に譲られるとされて、盛房が有力視されていた。しかし、盛信は葉若と謀って盛房を蒲生家の婿として出し、一政に家督継承をしたという。このため、関家の中で葉若は力を増し、一方岩間らはこのことに憤ってその後関家を裏切る行動をとることとなる。
天正11年正月、関盛信は重臣葉若を供として秀吉に礼を述べるために上洛するが、その留守の間に盛信の家臣岩間一貞は、43人の家臣とともに滝川一益に通じて反逆し、亀山城を乗っ取ったという。
信雄・秀吉軍との戦いに備えて、滝川一益は北伊勢の諸城を固める。特に、近江から伊勢への通路となる亀山市域の城に兵を配置する。峯城は信孝家臣の岡本良勝の居城であったとされるが、秀吉方に味方した良勝を追放し、峯城には一益の甥の滝川益重が配置されたという。亀山城には、岩間一貞が関に反逆して滝川方となり、佐治益氏が入城した。関氏の家臣の国府氏や鹿伏兎氏も滝川方に味方し、信孝領の伊勢の領主たちもかなりは滝川に帰順した。
一方、関盛信や神戸の小島民部少輔ら、信孝旧臣の岡本良勝、そして中伊勢の織田信包らは、信雄・秀吉に従った。
信雄・秀吉軍は2月10日に出陣して伊勢国に入る。秀吉軍は、美濃国土岐多羅口(岐阜県大垣市上石津)から、秀吉の弟の羽柴長秀(秀長)・筒井順慶ら、君畑越え(滋賀県東近江市)では秀吉の甥の三好孫七郎信吉(秀次)・中村一氏・堀尾吉晴ら、そして安楽越え(安坂山町)で秀吉軍が伊勢へ攻め入ったという。12日に峯城を包囲し、16日には亀山城まで攻め寄せた。
当時の亀山城は西と東に端城を配する構造で、惣構えをもち、堀・柵・逆茂木を配する堅固なものであった。また、城下町をも併設していたようである。秀吉軍は両端城や城下町を放火し、一重の塀まで攻め寄せ、金掘り(鉱夫)を入れて矢倉や塀を掘り崩したという。この金掘りによる城攻めは、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの書簡にもみえ、日本には珍しい城攻めの方法とし、城の地下に坑道を掘って城内に侵入して砦の下に放火して砦を崩れ落とさせたと記す。
亀山城の一番槍は、山内一豊の家臣五藤吉兵衛為浄とされる。攻防の結果、3月2日に亀山城は開城する。
峯城は、3000の屈強の兵がたて籠もる堅固な城であった。羽柴長秀(秀長)・長谷川秀一、蒲生氏郷ら江州衆らによって攻められ攻防が続く。攻め手が堀際まで攻めると、長い柄杓で排泄物を掛けて逃げ散らしたという。
峯城は、信雄・秀吉軍に大きな痛手を負わすが、食糧も尽き果て4月17日に開城し、滝川軍は桑名・長島へ退いていった。
秀吉は、4月21日に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家軍を破り、同月24日に越前北ノ庄城を攻めて、柴田勝家・お市の方を自害させる。
岐阜城の織田信孝は織田信雄軍が中心となって攻め、24日に開城する。信孝は尾張知多の野間大坊で5月2日に切腹し26歳で亡くなる。
滝川一益もその後まもなく秀吉に降下し、秀吉の配下となった。こうして、信雄・秀吉に敵対する勢力は消滅した。伊勢国では信孝・滝川一益が去ったので、北伊勢は信雄領となり、旧一益領は信雄の統治下となった。
当然次には、この戦争で大活躍したように実質的権力をもつ秀吉と、織田家の当主である信雄との間で争いが生じるのであった。
天正12年の戦いの状況図。
織田信雄・徳川家康と羽柴秀吉の戦争が始まるが、この戦争は一般に「小牧・長久手の戦い」と称される。これは、4月9日の長久手合戦で、家康が秀吉に大勝利をしたことが象徴的でこのよう
に言われるが、この戦いは小牧・長久手という尾張地域だけでなく、伊勢国・南美濃にまで及び、また約半年間にわたる広域大戦争であった。
さらに、長久手合戦の印象が強いために、秀吉と家康の戦争で全体に家康が勝利したというようにとらえられることもある。これは江戸時代になって、徳川家にとって秀吉に勝利した重要な戦争として、家康を顕彰するために小牧・長久手の戦いが位置づけられたことにも影響している。しかし、
この戦争はあくまで織田信雄と羽柴秀吉の天下をめぐる戦いであり、狭義の小牧・長久手の戦いだけでなく、北伊勢の攻防や加賀井攻めや竹鼻城水攻めなど重要な戦闘も行なわれている。
したがって、広義の信雄と秀吉の戦争を示す場合、小牧・長久手の戦いと称するのは適切ではないと思われ、ここでは「天正十二年の戦い」とする。
北伊勢の攻防では、羽柴秀吉は、3月8日に堀尾吉晴らに北伊勢出陣を知らせ、11日には関地蔵(関町新所)近辺まで兵を進め、自らも同日に出発すると伝える。
伊勢国の秀吉方は、亀山城の関一政、雲林院・小島民部少輔・長野左京亮らで、不利な状況下にあった。
早速3月9日には、信雄方の神戸正武ら500名の軍勢が亀山城を攻撃した。関方は15人しかおらず、盛信は亀山の町を焼き払ってその煙に紛れて15人が500人の中に駆け入って敗退させたという。
堀秀政や蒲生氏郷などの秀吉軍が伊勢国に侵攻し、3月14日亀山城を攻めていた信雄の軍勢は佐久間正勝が守る峯城まで退却し、さらに秀吉軍は峯城を攻撃する。14日の峯城の戦いでは激しい戦闘があって信雄方からは多くの戦死者が出た。翌15日峯城は落城し、城将佐久間正勝は尾張へ逃げ去る。開城された峯城は修築普請がなされ、浅野長吉(長政)と岡本良勝が留守居として残った。
3月26日の羽柴秀吉書状では、峯・神戸・楠などの諸城を攻め落とし、ほとんど伊勢国を平定したと述べている。
当初は信雄・家康ともに伊勢国での戦闘を想定していたが、信雄が犬山城主中川定成に峯城への応援を命じて定成が出陣すると、その間に池田元助・森長可によって犬山城が占領された。そのため信雄・家康軍は、伊勢国へ向かわず小牧山城へと移った。こうして戦いは伊勢国だけでなく、北尾張へと拡大していった。
亀山城跡出土の犬の人形。安土桃山時代。
亀山城跡出土の天目茶碗など。安土桃山時代。
亀山城。ジオラマ。北西から南東方向。
中央が本丸。その右が西出丸。本丸の左が二の丸で、本丸の北から堀端に下り、濠を渡って復元された二の丸北帯曲輪を見学した。本丸南東端に江戸時代後期の多聞櫓が現存している。
伊勢亀山城(古城)は、文永2年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城され、神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。
天正18年(1590年)に、豊臣秀吉に従った岡本良勝が亀山古城に入城後、東の丘陵地に天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城を築いた。なお、近世亀山城の下層に戦国期亀山城の遺構が確認されているので、古城の曲輪の一部を利用したと考えられている。
岡本良勝は慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで西軍に属し、桑名城で自刃させられた。
亀山城へは関一政が再入城する。その後、亀山城は松平忠明をはじめ、三宅・本多・石川・板倉・松平・板倉と交代したのち、延享元(1744)年から石川氏が明治維新まで城主をつとめた。
亀山城は幕府の宿所としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。寛永13年(1636年)、城主となった本多俊次の手で大改修が行われ、西出丸の新造、西乃丸、東三之丸の新設など城地を拡大し、近世城郭としての体裁を整えた。寛永9年頃に堀尾忠晴により、丹波亀山城の天守と間違えて破却された天守の代用として本丸北端に三重櫓が築造された。
陣羽織。江戸時代。
陣羽織。江戸時代。
赤ちゃんが銃撃された昭和20年8月の米軍機による列車銃撃事件。
機銃弾の薬莢。
亀山城石坂門の石垣。博物館敷地内。
このあと、亀山城本丸跡方面へ向かった。