国史跡・王塚古墳。三重県鈴鹿市国府町。
2017年5月14日(日)。
三重県における代表的な古墳の一つである。鈴鹿川の東岸段丘上にあり、周辺の西ノ野古墳群に属し、その中で最大の前方後円墳で、西ノ野1号墳とも呼ばれる。全長62m、後円部の径37m、高さ6m、前方部の幅47mで、前方部の幅が大きく、高さは後円部とほぼ同じで、その形から古墳時代後期(6世紀初頭)の首長墓と考えられる。北東には径8mほどの陪塚の2号墳がある。
対岸の亀山市井尻町にある全長54mの前方後円墳の井尻古墳も6世紀初め頃の同系統の首長墓とされる。
国史跡・王塚古墳。
盾形の周溝と外堤が完存し、外堤は幅約3mで高さは約1m。
王塚古墳の南50mほどに古墳群の5~10号墳が残り、西ノ野5号墳は全長30.5mの前方後円墳、前方部は後円部より幅が狭く、高さも低いことから、王塚古墳より時代は古く、5世紀後半の築造と考えられる。
道路脇の空き地に駐車し、戻ったら、道路沿いにロープが架けられていたので、外して出た。見学者用の駐車場はなく、路肩も狭い。
采女の杖衝坂(つえつきざか)。四日市市采女町。
旧東海道の坂で、国道1号線東の丘陵地にあり、東海道では箱根、鈴鹿峠に次ぐ難所のひとつであったという。三重県名の由来にもなったヤマトタケルの故事がある急坂。
国道1号線には道標がないので、当たりを付けて、左の脇道へ入った。右上へはかなりの急坂道路となり、駐車スペースがなさそうだったので、麓から九十九折の坂道をしばらく登ることとなった。坂道の途中には「うつべ町かど博物館」があるが、水・土・日・祝日の午前中のみ開館だったので、置いてあった「東海道今昔マップ」というパンフレットのみ頂いた。坂道を5分ほど登ると「杖衝坂」の石碑がある。
古事記によれば、日本武尊が幾多の苦難の末に東国を平定し、帰途に着いたが、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、病にとりつかれてしまった。大和に帰るため、伊勢に入り、三重郡采女村あたりまで来たとき、急坂があり、極度の疲労のため腰の剣を杖の代わりにしてようやく登ったので、その坂を「杖衝坂」といったという。
さらに、少し進んだとき、「吾か足 三重の勾(まがり)なして いたく疲れたり」と言い、その地を「三重」とよび、三重郡名の由来となったという。そして、能褒野にたどり着いたところで亡くなったので御陵を造ると、日本武尊は、大きな白鳥と化して、大和をめざして飛び去っていったという。
この杖衝坂は、内部川から約0.5㎞南にあって、東海道の道筋の中でも急坂となっている。大正の末期頃、この坂を自動車が登り切れないので、坂の下の民家の牛の力を借りて登ったというエピソードも残されている。この坂は、自動車をはじめ歩行者にも難所であったので、昭和の初期頃、丘陵の北側の中腹にゆるやかな坂道を新設し、のちに現在の国道一号線が走るルートとなった。
杖衝坂の芭蕉句碑。
「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」。宝暦6(1756)年建立。
貞享4年(1687年)江戸から関西へ向かった松尾芭蕉が馬に乗って杖衝坂を登ろうとして、この急坂で落馬してしまい、詠んだ季語のない有名な俳句という。
四郷(よごう)郷土資料館。旧四郷村役場。 四日市市西日野町。
当館は、三重紡績の創業者で地元出身の実業家伊藤伝七(1852年~1924年、東洋紡績社長)が郷土への恩返しにと、1921年(大正10年)6万円という大金を寄付し、三重郡四郷村役場として建てられた。
木造2階建てで一部塔屋は3階建て。2階にはアール・デコ風の装飾が施された天井をもつ村会議場などが設けられた。南東の塔屋には螺旋階段が3階まで通り、上りつめた六畳余りの展望台からは四郷全体が一望できる。
昭和57年四日市市の有形文化財の指定を受け保存されることになり、昭和58年11月3日「四郷郷土資料館」として再生された。一階部分のみ開放展示している。
説明板。
門。
四郷小学校へ続く小高い丘陵の南斜面にある。上の小学校グラウンド横の駐車スペースが満車だったので、資料館裏に無理やり入り込んで駐車した。日曜日なので、開館しているだろうと思ったら、土曜日のみ開館だったので、がっかりしたが、外観は見学できた。
外観の優美さからすれば、重文になってもおかしくない。
15時頃となった。5月16日(火)に人差し指脱臼のために通院しなければならず、名古屋方面へ帰る行程としたら意外と早く終わってしまったが、このまま帰宅することにした。近くのショッピングセンターにあるQBハウスで散髪後、名古屋の自宅に戻った。
5月16日(火)の通院直後、第二次の三重県見学を伊賀地方から始めた。