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三重県津市 浅井三姉妹が預けられたと伝わる伊勢上野城跡 

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伊勢上野城跡。本丸跡。津市河芸町。
2017516日(火)。
516日(火)の昼過ぎから、三重県の第二次史跡見学にでかけ、まず、津市北部の伊勢湾に面した伊勢上野城跡を目指した。道の駅「津かわげ」で見た情報では、資料室は9:0016:00 月火休となっていたので、16時までに着くように、国道23号線を走り、城跡のある本城山青少年公園の駐車場に1550分頃到着した。
 
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本丸跡の展望台に急ぐと、
2階の資料館は閉まっており、日曜日のみの開館になったことを知った。
 
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伊勢上野城は、南北朝時代から戦国時代にかけて中勢地方の有力国人であった長野氏の一族で、安濃郡の分部や神戸(いずれも現津市)を本拠にしていた分部氏が
16世紀半ばまでに築城したと考えられる。
 
永禄111568)年、中勢地域へ織田信長軍が侵攻する。この時、長野氏は長く勢力争いを続けてきた北畠氏から養子・具藤を迎え、その傘下に入っていた。分部光高は同族の川北氏とともに信長に通じ、信長の弟・信良(後の信包)を長野氏の養子に迎え、具藤を追い出した。その翌年、光高は織田軍の一員として北畠攻めに参加して戦死し、養子の分部光嘉(同族の細野藤光の次男)が分部氏の家督を継いだ。
 
永禄12年(1569年)10月伊勢大河内城が落城して北畠家が信長に臣従すると、織田信包は信長から伊勢安濃津城主に任じられた。伊勢上野城の城主となった信包は、津城(安濃津城)の仮城とし、城を分部左京亮光嘉に命じて修築させ、本丸や天守台が整備された。
 
天正8年(1580年)、津城の完成により、織田信包が居城を移したため、分部光嘉が城代となった。本能寺の変後、豊臣秀吉に仕えた織田信包が文禄3年(1594年)に秀吉から改易されると、分部光嘉は上野城主に任ぜられ、慶長3年には1万石の大名となった。
分部光嘉は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川方に属し、安濃津城に籠城した。戦後、伊勢上野藩は2万石に加増された。翌年、分部光嘉が亡くなり、養嗣子光信が継ぐ。
元和5年(1619年)、分部光信が近江国大溝藩(高島市)へ移封となったため、廃城となった。
 
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天正元年(
1573年)織田信長と対立した妹婿・浅井長政の小谷城が攻め落とされ、浅井氏が滅亡したさい、信長の妹お市と茶々、初、江の浅井三姉妹は、信長の弟信包の居城である伊勢上野城に保護され、7年間を過ごしたという。
なお、近年では、信長、信包、お市の叔父である織田信次(信秀の弟)が居城とした守山城(名古屋市守山区)に預けられたという説もある。
 
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伊勢上野城跡展望台から本丸・伊勢湾方向を見下ろす。
伊勢上野城は伊勢街道沿いに造られた上野の町並みを西に見下ろす標高30mの台地上にあり、台地の東側は断崖状になっていて伊勢湾を一望でき、他の三方は谷に囲まれ、南方は津市街が間近に見られる。城域は東西230m、南北120mの規模で、本丸は80m四方の高台で、低い土塁と北西隅の櫓台状地を備えている。東側に二の丸が置かれ、その東側には幅20m近い空堀が造られており、北側に入り込んだ谷は古図には池と書かれていて、南・西の谷とともに城を囲む自然の堀を形成していた。
 
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伊勢上野城跡展望台から伊勢湾・知多半島を眺める。
 
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展望台の展望案内図。
伊勢街道や伊勢湾という水陸交通の監視所として優れた場所にある。
知多半島の大野城は、徳川家光の母となった浅井三姉妹の江が天正12年(1584年)に最初に嫁いだとされる佐治一成の居城である。
 
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二の丸跡から本丸跡を眺める。大きな段差がある。
 
このあと、道の駅「津かわげ」へ向かった。

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