鹿伏兎(かぶと)城跡と神福寺。三重県亀山市加太(かぶと)市場。
2017年5月17日(水)。
石山観音を見学後、名阪国道を関ICから西の伊賀方面へ向かい向井ICで下りて、鹿伏兎城跡(加太城)の登城口という神福寺を目指した。旧街道を西へ行きすぎて迷ったのち、東へ戻り北東への脇道を登ると、JR関西線加太駅が見え、正面に神福寺が見えた。寺への渡り線路に近い土手の路肩に駐車し、神福寺へ向かった。
神福禅寺は鹿伏兎氏の菩提所であり、現在も応永元年(1394)に鹿伏兎左京亮貞俊を大檀那として寺を再興した際の棟札が伝存している。
神福寺門前の説明板。
鹿伏兎城は、鈴鹿川一帯を支配した戦国武将関氏6代盛政の四男盛宗(鹿伏兎氏祖)によって南北朝時代の正平年間(1346~69)のころ築かれ、はじめ牛谷城と呼ばれた。
鹿伏兎氏7代定好の代に修築を加えて城郭を整備、鹿伏兎城と呼ばれるようになった。天文十一年(1542)、定好の子定長は、ときの将軍足利義晴に白鷹を献上したことから、「白鷹城」とも呼ばれるようになった。
天正11年(1583)9代定義は、神戸信孝・柴田勝家・滝川一益に与したため、羽柴秀吉・織田信雄の軍勢に攻められ、鹿伏兎城を捨てこの地を去った。加太氏退去後は織田信包の支配するところとなり、元和元年(1615)に織田氏が改易されるまでには廃城となっていたとみられる。
現在も、標高264mの牛谷山山頂には75×60mの台状地に、土塁・石垣・井戸などが現存して、往時の様子をいまに伝えている。
関五家の一つ鹿伏兎氏歴代の居城として亀山城・国府城・峯城と並ぶ関一族の拠点城館のひとつであった。
城山の南麓の街道は、加太越奈良道(大和街道)とよばれ、関宿の西から東海道から分かれて、加太峠を越えて伊賀・大和に通じる道であった。この道は、壬申の乱のときに大海人皇子が通った道とされ、鈴鹿峠が開かれる前の古東海道という説もある。鹿伏兎谷は伊勢と大和を結ぶ大和街道を押さえる要衝の地であり、山頂の鹿伏兎城は周囲の展望も良く、城館の立地としては、きわめて良い条件を備えていた。
説明板の案内図。
現況では、山頂部分の南北110m、東西100m尾根上の範囲に城は所在する。三つの郭が並び、最も規模が大きい中心郭は高い土塁で囲まれている。この土塁の一部は櫓台となっている。南側の郭には石組井戸もみられる。また、中心郭への出入口(虎口)外の土塁下方には幅17m、高さ2・3mの石垣がみられる。
近世の編さん物である『加太氏由緒書』(『関町史』)には、加太城間付西ノ丸東西弐拾五間東ノ丸口弐拾五間上がり坂三百五十間丸ノ内ニ井有水沢山今ニ有石垣有楼ノ上ニ物見ノ松今ニ有下城屋敷西東三拾五間南北三拾弐間堀牆四拾八間南北三拾五間東西堀牆五拾間堀幅五間惣構六拾間四方
とあり、概ね現在の状況と一致している。
神福寺が鹿伏兎氏居館跡とされていたが、市場集落の西端にある市場遺跡の発掘調査により、複数の掘立柱建物跡・堀・石垣が確認され、1300点を超える土師器皿など15世紀後半を中心とした遺物が出土しており、市場遺跡が鹿伏兎氏居館跡であるとみられる。鹿伏兎氏は一族や重臣を加太の各集落に配置したとされ、それぞれに城や館の跡とされる個所がある。
麓と城との比高差は100mである。登城道は神福寺の西境内から尾根道を北へ直登するルートが案内されている。しかし、城跡石垣下を辿ると、遊歩道のような道が続いていた。結局、元のルートから下山したが、この道は西の溜池の脇を通って神福寺西数百mにある問屋場跡付近へ下っているようで、このルートの方が楽なようだ。
登城道。尾根道。
9時過ぎに寺に入ると、住職が清掃をしていた。登城道を教えてもらったが、草付きの斜面を登るはめになり、登山で慣れているとはいえ、尾根道へ入るまでに難渋した。尾根道へ入ると、高みへ登れば良いのだが、ルートは明確ではない。
牛谷山山頂。
寺から30分で山頂に着いたが、城跡は分からない。ここからさらに北へ下った低地にようやく城跡らしき平坦地があった。
鹿伏兎城跡。虎口。
鹿伏兎城跡。虎口南の石垣。
鹿伏兎城跡。虎口と石垣。
鹿伏兎城跡。主郭周りの土塁と虎口。
鹿伏兎城跡。虎口南の石垣。
このあと、石垣横の道を南へ5分余り下ると、西へ向かう水平道となった。遊歩道のような道だったので、なぜこの道が紹介されていないのか、どこへ下るのか分からないので、元のルートから下ることにして、戻った。
鹿伏兎城跡。主郭下の曲輪。
井戸があるはずだが、分からなかった。
JR関西線加太駅。
このあと、神福寺からのルートを下ったのだが、途中で東の尾根に迷い込んだ。薄い踏み跡を辿ると、人工的なものがあり、JR線路が近いことが分かった。水のないコンクリート水路を歩こうとしたら、滑ったので止め、線路山側の溝を飛び降りて、駅のプラットフォームへ辿り着いた。神福寺からは300mほど東にあたる。
ちょうど列車が入ってきたので、写真撮影のふりをして誤魔化した。
車に帰ったのが11時頃になり、予定した以上に時間を要してしまった。神福寺からのルートでなく、問屋場跡からのルートを整備すれば、鹿伏兎城跡の見学は楽になるだろう。
このあと、伊賀市柘植の福地城跡へ向かった。