伊賀上野城。模擬天守。伊賀市上野丸之内。
2017年5月17日(水)。
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。もともと平楽寺という大寺院があり、織田信長の天正伊賀の乱の際には、伊賀勢の拠点の一つになったが、伊賀勢の敗北とともに焼け落ちた。その後、1581年(天正9)織田信雄の家臣滝川雄利が平楽寺の跡に砦を築いたが、小牧・長久手の戦いのさい脇坂安治によって落城させられた。天正13年(1585年)に豊臣秀吉の家臣筒井定次によって改修を受けた。失政をとがめられた定次が改易されると、かわって藤堂高虎が入り、慶長13(1608)年大坂城包囲網の一つとして大修築が行われたが、豊臣氏の滅亡により、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま、江戸期を通じて津城を本城とする藤堂氏の城代支配が幕末まで続いた。
天守閣は1612年の暴風で倒壊したあと再建されなかった。現在、天守台にある3層3階の天守は昭和10年建築の模擬天守で、正式には伊賀文化産業城という。
城跡の中には松尾芭蕉を祀る俳聖殿、芭蕉翁記念館、伊賀流忍者博物館がある。
30年ほど前に、伊賀上野城、俳聖殿などを見学しているので、城には入場しなかった。
本丸西側の高石垣は堀底から約30mの高さをもつ。
伊賀上野城を出て、車を駐車場に置いたまま、徒歩で伊賀市役所に行き、受付案内で現だんじり会館にあった歴史民俗博物館はどうなったのか尋ねたり、ここへ来る前に探し回った伊賀国分寺跡の場所や旧小田小学校の場所を尋ねたりした。旧崇廣堂方面へと歩く。
旧三重県第三尋常中学校校舎。上野高校(明治校舎)。三重県有形文化財。
明治期の旧制中学校建築として現存する数少ない建物の一つである。明治33(1900)年竣工。設計者は、先に三重県庁や三重県師範学校校舎を設計した清水義八である。
木造平屋建で、下見板張桟瓦葺きの東西68mにおよぶ長い建物の両端に南北棟が交わり、前方へは僅かに出るのみで後方に延び、全体はコの字型をとるが、正面中央の玄関ホールにポーチがとりつき、広く高い石階段によって上る。正面にはポーチと両翼の妻に和風入母屋根を見せる。
現在も部活動や特別教室として生徒が利用中で、青少年期を伊賀で過ごした作家・横光利一が、この校舎で学んだことから明治校舎の一部は1992年から「横光利一資料館」として一般公開されており、資料館は、事前予約すれば見学する事ができるという。
説明板。
説明板。
国史跡・旧崇廣堂。御成門。
伊賀上野城の南西にある藩校跡。藩校の遺構としては全国的にもまれなもので、近畿・東海地方で江戸時代から残っている藩校では唯一の遺構である。
1821年(文政4)に伊勢国津藩の第10代藩主藤堂高兌(たかさわ)が、伊賀・大和・山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため藩校である津の有造館の支校として創建した。
崇広堂の名は、儒家が重視する経書の『書経』に収められた「功崇惟志、業広惟勤」の語句からとったものである。立派な御成門があり、その先が入り口で、講堂や書庫などを当時の姿のまま見ることができる。
講堂の扁額は、若くして藩政改革に取り組んで藩の窮乏を救った米沢藩主上杉鷹山の筆で、藤堂高兌が懇請して得られたものである。
1984年(昭和59)に上野市立図書館が新築されるまで、市立図書館としても利用されていた。
国史跡・旧崇廣堂。入口。
16時頃入場。受付に誰もいなかったので、外へ戻って清掃している女性職員に声をかけた。
受付左の部屋でビデオを見るようにいわれた。
国史跡・旧崇廣堂。玄関棟と右奥に講堂。
国史跡・旧崇廣堂。講堂内部の大広間。
広さは72畳。イベントの準備をしていた。
国史跡・旧崇廣堂。講堂西廊下横の中庭。
国史跡・旧崇廣堂。講堂北の北控所。
6つの部屋があり、この部屋は床の間付き8畳で、隔年一度の藩主臨校のさいに藩主の控えの間となった。
他の部屋は督学(文武教官の監督)など学校高官の休所として使用されていた。
国史跡・旧崇廣堂。台所棟。
明治期に規模が縮小されていたが、発掘調査により、藩校時の姿に復元した。14畳の広間は手代の詰所などとして使用されていた。8坪の土間には炉が設けられていた。
国史跡・旧崇廣堂。講堂。
扁額が架けられている。
国史跡・旧崇廣堂。講堂。
手前の池はその形状から勾玉池と名付けられている。
16時30分ごろとなり、旧小田小学校の見学は諦めて翌日に回すことにして、伊賀上野城入口の駐車場に戻り、道の駅「いが」へ向かった。