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三重県伊賀市 国史跡伊賀国分寺跡 国史跡・廃捕陀落寺跡町石 御斎峠

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国史跡伊賀国分寺跡。伊賀市西明寺。
2017517日(水)。
道の駅「いが」で起床。伊賀国分寺跡近くにあるサンピア伊賀の「天然温泉芭蕉の湯」へ向かった。朝6時から8時まで朝風呂500円。
昨日、伊賀国分寺跡を捜して、近くの伊賀市文化会館で場所を尋ねたときに、向かい側に日帰り温泉施設があり、朝風呂の存在を知った。伊賀流忍者博物館の忍者ショーの時間が迫っており、伊賀国分寺跡は10分ほど周囲を歩いて探索しても場所が分からなかったので、昨日は諦めた。
今朝、伊賀国分寺跡に再挑戦することにして、その前に温泉へ入浴した。露天風呂には芭蕉の句碑があるほかは、特徴のない立ち寄り湯であった。
 
昨日は文化会館北西の広大な無料駐車場に駐車して、北東の斎苑方向を歩いたが、今度は北西方向の畑と森の方向へ車道を数分歩くと、史跡南端にある伊賀国分寺跡の看板を見つけることができた。周囲には案内表示がないので、分かりづらい。観光地ではないので仕方がない。
 
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伊賀国分寺跡。説明板。
上野市街地の東方、西名阪自動車道に接し、奈良時代の741年(天平13年)に聖武天皇の詔勅によって建立された国分寺の一つである。各建物の基壇跡が残り、中門・金堂・講堂が南北の直線状に並び、中門の南西方向に塔が配置されていて、金堂から中門にかけては回廊がめぐらされていた可能性がある。
建物群は東西約220m、南北約240m四方の土塁で囲まれており、これは築地跡と考えられている。
礎石は近世に上野城の築城などに転用されたといい、すべて抜き取られて現存せず、現状は野原の中に土壇が認められるだけで、金堂跡・講堂跡・塔跡などの標識が立てられている。1923年(大正12)に国の史跡に指定され、1944年(昭和19)の海軍飛行場用地となって解除。1948年(昭和23)に再び指定され、1961年(昭和36)に追加指定を受けている。
 
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伊賀国分寺跡。南側から中門跡方向。
雑草と雑木が多いので、中には入らず、回廊跡の遊歩道を東に進むと塔跡の案内板があった。そのまま東の歩道に出て、南東端に帰った。
 
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伊賀国分寺跡。南東端から。
土塁が目立つ、広大な寺域が残存している。伊賀市も史跡保存利用には持て余している様子がうかがえる。
伊賀国分尼寺跡と推定される長楽山廃寺跡は、東側数百mにあるらしいが、昨日史跡標識を捜しても分からなかったので、本日も諦めた。
 
伊賀市北西山間部の御斎峠、廃捕陀落寺跡町石へ向かう。
 
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鍵屋の辻。伊賀市小田町。
寛永11(1634)、渡辺数馬が義兄荒木又右衛門の助太刀を得て、弟源太夫を殺した河合又五郎に仇討ちを成し遂げたところで、日本三大仇討の1つ「伊賀越仇討」の舞台となった場所である。信楽道との分岐点で、現在も「ひだりならへ みぎいせみち」と記された道標が残る。
 
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国史跡・廃捕陀落寺跡町石。十三丁石。伊賀市西高倉。
鎌倉時代中期に市の北西、鳥居出の水上山にあった補陀楽寺跡から、奈良街道と呼ばれる旧街道に向かって1町ごとに配置された道しるべの石で、現在15基のうち10基が残っており、寺からもっとも遠いのが15町石である。いずれも花崗岩の自然石を用いて梵字や寄進者の名などが見え、補陀楽寺に向かう老若男女の便のために信者が建てたものである。
補陀落寺は建長年間(124955年)に近くの高倉神社から約800m登ったところに建立された寺で、基石と高さ約110cm4町石には町石中最古の建長5年(1253)の年号が刻まれ、大阪府箕面市の勝尾寺の宝治元(1247)年につぐ、我が国で2番目に古いものである。
 
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廃捕陀落寺跡町石。十三丁石。
 
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廃捕陀落寺跡町石。十三丁石。説明板。
 
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御斎(おとき)峠。伊賀市西山。
海抜600m付近にある伊賀市西山と甲賀市多羅尾を結ぶ峠。
司馬遼太郎の小説をもとにした映画「梟の城」のオープニングシーンにも登場する場所で、本能寺の変で、堺にいた徳川家康が伊賀越えして命からがら岡崎に帰ったときに、伊賀者、甲賀者に助けられて越えた峠でもある。
 
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御斎峠から見下ろす伊賀盆地。
 
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御斎峠から見下ろす伊賀盆地。

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御斎峠の山口誓子句碑.。「切通し 多羅尾寒風 押し通る」。
昭和47年2月御斎峠越えの高旗林道が開通する直前に滋賀県側からここを訪れ詠んだと言われている。除幕式には誓子夫妻を迎えて俳句仲間が集まった。
 
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御斎峠。説明板。
御斎峠の名は鎌倉時代、夢窓国師がここで村人から接待(斎)をされたことに因むという。
本能寺の変では、地元の土豪多羅尾光俊父子が徳川家康を警固してこの峠を越えた。
 
峠を滋賀県側へ数百m進むとタラオカントリークラブの入口があった。この地は滋賀県甲賀市信楽町多羅尾であり、多羅尾氏発祥の地である。
 
信楽は近衛氏の荘園であり、この地に隠居していた近衛家基の子経平と多羅尾の地侍の娘との間に男子が生まれ、1303年(嘉元元年)多羅尾の地名を姓とし、名も改めて多羅尾師俊と名乗るようになった。これが多羅尾氏の始まりであるというが、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。師俊は多羅尾に城を造り、信楽全体に勢力を広げていった。
 
南北朝時代は、多羅尾氏と信楽における勢力争いをしていた鶴見氏と一時結んで、南朝方として行動した。
 
多羅尾は、伊勢と京の交通の中継地だったため、代々多羅尾氏は京の貴族や将軍などの重要人物の警護を担っていた。多羅尾光吉の代になると、六角高頼と将軍足利義尚の争いのさい鈎の陣で夜襲をするなど活躍した。光吉は競合していた鶴見氏を逐って多羅尾氏を信楽での主勢力とし、さらには近衛家領の荘園に押領を繰り返し支配権を獲得した。
 
1568年(永禄11年)、光吉の子多羅尾光俊は六角氏の没落により、以前から縁のあった徳川家康を通じて織田信長の外様衆となり、伊賀征伐で功を立てた。
 
1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、堺に取り残された徳川家康は三河へ帰ろうとしたが、その途上に伊賀があった。ここは信長がかつてさんざん攻撃した地域で、その同盟者だった家康の命も危うかった。家康一行の長谷川秀一が甲賀一帯に影響力をもつ多羅尾光俊に助けを求めたところ、光俊は家康一行に一夜の宿を提供しただけでなく、翌日従者50人と甲賀武士200人を付けて加太峠までの伊勢路を警護した。この伊賀越えを助けたことで多羅尾氏と甲賀衆は徳川氏に少なからぬ恩を与えた。
 
光俊は小牧・長久手の戦い後、豊臣秀吉に従うようになった。豊臣秀次が近江八幡に入った時に光俊は秀次を多羅尾で歓待し次男の娘「お万」を秀次の側室にすることに成功した。その後多羅尾氏の領地は信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和の計8万石に達し、全盛時代を築いた。しかし、秀次が切腹させられると、お万も秀次の家族と同じく処刑され、連座の咎(とが)で多羅尾氏はことごとく改易となり、多羅尾氏は一瞬にして無禄となってしまった。
 
慶長三年(1598)、秀吉が死去した。豊臣家の今後のことを議するため大坂城に入った家康は、伊賀越のときに世話になった多羅尾光俊の近況を調べさせ、苦しい生活を送っていることを知った。家康は光俊・光太らを召し出すと、当座の手当てとして二百人扶持を与え旗本に取り立てた。同五年、光太は上杉景勝征伐に随行、つづく九月に起った関ヶ原の合戦にも参加、戦後、代々の領地であった信楽七千石余を与えられた。その後、光太は大坂両度の陣にも一族とともに出陣し、徳川幕府体制下における地位を確立したのである。
 
光太のあとを継いだ光好は、寛永十五年(1638)、江戸に呼び出されて代官に任命された。そして、屋敷内に「代官信楽御陣屋」を設けるよう命じられた。御陣屋は近畿地方の天領を治める役所であり、一般に多羅尾代官所とか、天領信楽御役所と呼ばれた。以来、多羅尾氏は江戸時代を通じて信楽のほか近江甲賀、神崎、蒲生三郡と美濃、山城、河内の国々の天領代官に任じられ、最盛期には十万石余を治める、全国代官所中の首席となった。

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