旧小田小学校本館。三重県指定文化財。伊賀市小田町。
2017年5月17日(水)。
旧小田小学校本館は、明治14年(1881年)に建てられたもので、当時は「啓迪(けいてき)学校」と呼ばれ親しまれた。昭和40年まで現役校舎として使用され、現存する小学校校舎としては三重県で最も古い建物である。
近代初等教育の草創を象徴する記念物として、昭和50年に三重県の有形文化財に指定され、平成2年から5ヶ年の解体調査及び復元保存工事が行われた。
御斎峠から伊賀上野城のすぐ西にある旧小田小学校本館へ向かった。小学校周辺の道は狭い。
旧小田小学校本館。説明板。
旧小田小学校本館。
洋風木造二階建て、寄棟造り、桟瓦葺、延面積274m㎡。
二階正面のバルコニーが珍しく、大屋根中央には六角形平面の太鼓楼が設けられた。最も趣向を凝らした正面ポーチは切妻造になっており、エンタシス風の柱が印象的である。
太鼓楼は明治末年には消失していたが、復元保存工事に合わせて復元された。
旧小田小学校本館上部の鬼瓦。
旧小田小学校本館。玄関上部。
龍の彫刻が嵌め込まれている。
校名「啓迪学校」の由来は書経から。「啓迪」の語は左頁中央下にある。
「啓迪」の意味。
「啓迪後人」(教え導く)の意味がある。
明治24年頃の「啓迪学校」。銅版画の右下にある。左は平井神社。
昭和40年廃校時の平面図。
啓迪学校開業式祝祓。明治14年10月19日。平井神社祀堂平井利平誌。
棟ごとに取り付けられた鬼瓦。
1階展示室。人体の解剖模型。
1階展示室。机と椅子。
2階の窓。階段の上。色ガラス。
2階に残されている色ガラスは、当時の建築係が神戸市まで出向いて調達したと伝えられ、ギヤマンの学校として評判になったという。
2階。太鼓楼への登り口。
2階。内部。
2階。バルコニー。
2階。復元された色ガラスの窓。
2階。啓迪学校設立とその背景。
旧小田村は、木津川(長田川)と服部川の合流する低地に開かれてきた集落である。村を大きく変えたのは嘉永7年(1854)の「安政の伊賀地震」である。この地震によって小田村付近盆地床が沈下し、たびたび水害を受けるようになった。
特に、明治3年(1870)俗にいう午年の水害では、溺死者16名、家屋の流失・浸水は全村に及び、村は壊滅状態となり復旧にほぼ2年を要した。こうした災害の抜本的対策として計画されたのが明治7年(1874)から4か年をかけた避水移居であった。
このような状況の中でも、明治6年に夜学会が開かれ、明治8年には小田学校小舎が開設された。
明治14年(1881)9月には校名を「啓迪学校」と改め、同年10月19日本館の竣工をみた。
困窮した村財政の中での校舎建築のため、資材の骨格は赤坂町菅野家の酒蔵の古材を譲り受けるなどの工夫をこらし、村民の寄付・労力奉仕によって短期間に完成した。
しかし、屋上には太鼓楼を加えエンタシス風の柱で支えたバルコニーを取り入れた先進的な洋風建築とした。
また、2階に残されている色ガラスは、当時の建築係が神戸市まで出向いて調達したと伝えられ、ギヤマンの学校として評判になったという。
この校舎には関係者の高邁な姿勢が現され、村民の教育に対する期待がこめられている。
啓迪学校の命名は、学務委員村田順造氏発案で、「書経」の「啓迪後人」(教え導く)からとったもので倫理尊重・徳学の精神は廃校となるまで約85年伝えられ、数多くの人材育成の場となった。
2階。校旗など。
2階。校旗など。説明。
2階。各地の校舎で使われた鬼瓦。
このあと、百地砦跡へ向かった。