青雲寺から百地砦跡へ。伊賀市喰代(ほうじろ)。
2017年5月17日(水)。
伊賀上野城下から東南東を進み、友生を過ぎて狭い車道を抜けると喰代(ほうじろ)地区に着く。その先の小橋を渡ると青雲寺の北下に駐車スペースがある。青雲寺脇の小道を入ると、堀跡の丸形池があり、その先の車道からさらに細い道を進むと、主郭南の虎口下へ着く。
百地砦周辺図。
百地砦跡。主郭南虎口。
百地砦は百地丹波守城、百地城ともよばれる。戦国期伊賀流忍者の上忍・百地丹波守(ももちたんばのかみ)の城跡と伝えられる。百地丹波守は、藤林氏や服部氏とともに伊賀三大上忍の一人とされる。
城跡の西側に古い街道があり、この街道を見下ろす丘陵に築かれている。麓からの比高差は12mあり、丘陵上に曲輪が連続して築かれている。
城域は約1000㎡で、伊賀地方の中世城跡としては大きく、要害堅固な城であった。
百地砦跡。主郭から南虎口方向。
百地砦跡。主郭。
主郭は東西50m、南北24mの広さで北側には高さ2m強の土塁が廻るが、南側の土塁は低い。
百地砦跡。主郭。
百地砦跡。説明板。
城や城主に関する記録は少なく、「三国地志」天文13(1544)年の項に「喰代もも地殿」と名がみえ、北伊賀では有力な土豪であったとみられる。「伊乱記」には、天正7(1579)年9月の布引鬼瘤峠の戦いで喰代村の百地丹波らが織田勢を迎え撃ったとある。天正9年10月の名張柏原合戦では百地丹波は柏原城に立て籠もっている。大和竜口にも百地丹波家があり、同族とみられる。
百地砦跡。説明板。
百地砦跡。縄張図。
城が築かれた当初は主郭と現在の青雲寺にあった館の2郭のみで、伊賀地方特有の四方土塁囲みの標準的な館城であったが、織田氏の進出に備えて東側へ城域を拡張したとみられる。
青雲寺(曹洞宗)は百地氏の菩提寺で、境内には代々の墓がある。
百地砦跡。主郭部分測量図。
このあと、伊賀市南西部にある千賀地(ちがち)城跡へ。
千賀地城跡。伊賀市予野。
千賀地城は、徳川家康に仕えた服部半蔵が誕生したと伝わる城で、半蔵の父、服部保長が築いた城という。
伊勢平氏の末裔で、足利義晴に仕えていた服部保長が、この地に移り住み、千賀地氏を名乗ったといわれる。
服部保長の子・服部半蔵正成は伊賀を出て、徳川家康に仕え1582年(天正10年)本能寺の変が起こると徳川家康を助け、伊賀山中から岡崎城まで送った(伊賀越え)。
服部半蔵正成は与力150騎、伊賀同心300名を支配下に置く旗本8千石となり、江戸城半蔵門に名を残している。服部半蔵家はのちに失脚するが、桑名藩の家老として存続した。他の一族としては、津・藤堂藩城代の藤堂采女、津軽藩家老服部長門、桑名松平藩服部石見等がいる。
藤堂采女は服部一族の保田氏の出身で、子孫は代々伊賀上野城代家老を務めた。
民家奥の小山の中腹に城跡があり、民家の間の通路を道標に従って登る。駐車場はないので、迷惑にならない場所に路駐。
千賀地城跡入口。
千賀地城。主郭跡。
主郭は20m四方の平地で、東、西、北の三方に土塁を巡らし、北側の段丘には堀を切って独立させている。また東、西、北の三方は急崖となっている要害の地となっている。北側土塁上には7×4mの櫓台か見張り台があったと思われる一段高い台地が設けられている。
主郭の石碑。服部半蔵と藤堂采女の石碑。
服部半蔵、藤堂采女(伊賀上野城家老)誕生の地として石碑が建てられている。
千賀地城説明板。
主郭の石碑。「伊賀乱横死者 供養塔」。
樹木が生い茂っているので、主郭からの展望はなかった。
このあと、近鉄大阪線青山町駅北西で伊賀鉄道比土駅近くの国史跡・名勝「城之越遺跡」へ向かった。