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三重県名張市 国史跡・美旗古墳群 観阿弥ふるさと公園 江戸川乱歩生誕地碑 名張毒ぶどう酒事件の葛尾(くずお)地区 

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国史跡・美旗古墳群・馬塚古墳。名張市美旗町。
2017517日(水)。
馬塚古墳は美旗古墳群の中で最大の前方後円墳で、全長142mと県内2番目の大きさを誇る。近鉄美旗駅の南側に位置する。
美旗古墳群は、名張盆地の北東部にある美旗小盆地に位置し、3km四方ほどにある前方後円墳を中心とする7基の古墳群で、伊賀地方でもっとも大規模なものである。
この古墳群は、三重県下で前方後円墳を主体とするもっとも顕著な古墳群であるだけでなく、それぞれの古墳の規模が雄大でさまざまな形態をもち、しかも1世代1墳的に首長層の墳墓として系譜的に継続して形成されてきたことが指摘される重要なものである。
 
古墳群は、伊賀地方の豪族だった伊賀氏または名張氏のものと推測されている。古墳群最古で5世紀後半の築造とされているのは、北東の台地縁にある全長88mの殿塚(とのづか)古墳である。
その西南約300mには帆立貝形で周濠のある全長100mの前方後円墳、女良塚(じょろうづか)古墳があり、女良塚の西方約400mには全長65mの前方後円墳で、造り出しのある墳形とこれを取り巻く周濠のある毘沙門塚(びしゃもんづか)古墳がある。
 
毘沙門塚古墳のさらに南方約800mには古墳群最大規模で全長142mの馬塚(うまづか)古墳が整った墳形と周濠を見せている。幅725mの周濠をもち、後円部の径98m、前方部の幅100mである。
馬塚古墳から東南約600mには全長55mの前方後円墳、貴人塚(きじんづか)古墳があり、幅約6mの浅い周濠があって出土品から6世紀初頭前後のものと考えられる。
 
南南東約1,5㎞の国道165号線(旧初瀬街道)沿いにある観阿弥ふるさと公園へ向かった。
 
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観阿弥ふるさと公園。入口。名張市上小波田。
田畑が広がる里の一角に、緑の繁った鎮守の森があり、「観阿弥創座の地」の石碑から、きれいな木立ちに囲まれた坂道を登ると、観阿弥ふるさと公園に至る。
 
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観阿弥ふるさと公園。説明板。
世阿弥の芸談をもとに息子の元能が1430年(永享2年)に筆録した「申楽談義」に、「伊賀小波田にて座を建て初められし時」とあり、観阿弥がこの地で猿楽座を立てたことを伝えている。
 
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「能楽大成者 観阿弥創座之地」記念碑。
記念碑の裏面には、申楽談義の一文「此座の翁は弥勒打也 伊賀小波田にて座を建て初められし時
伊賀にて尋ね出したてまつりし面也」が刻まれている。
観世座に伝わる翁の面は、弥勒という能面師が作ったもので、父の観阿弥が伊賀の小波田で、初めて猿楽の座を建てた時、伊賀で手に入れたものであると記している。
 
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観阿弥ふるさと公園。
この公園は観阿弥の偉大な功績を後世に伝えるため整備されたもので、ヒノキ造りの能舞台や東屋などがある。
毎年、11月の第1日曜日には「観阿弥まつり」が行われ、能楽愛好家による仕舞や地元の子ども達による狂言などが演じられている。
 
観阿弥は元弘3年(1333)伊賀の国に生まれ、幼い頃より大和に出て、猿楽の道に入った。
妻は小波田の土豪竹原大覚法師の養女で、小波田の地で座を立てたのは妻の父との関係とみられる。
創座の年がいつであったか不詳だが、かりに30歳前後とすれば、長子世阿弥が生まれた頃で、世阿弥は、幼年時代の幾年かを小波田の里で過したことになる。
 
まもなく観阿弥は大和の結崎に移り、新たに結崎(観世)座を組織して大夫となり、由緒の古い円満井(金春)座・坂戸(金剛)座・外山(宝生)座と並んで、春日興福寺に参勤する大和猿楽四座の中に位置を占めた。
 
応安7年(1374)京都の今熊野宮の祭礼で、観阿弥は「翁」を舞い、将軍足利義満の目にとまった。これが契機となって、観阿弥・世阿弥父子は将軍義満に取り立てられ、その保護によって能楽はますます発展と隆盛におもむくことになった。
 
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江戸川乱歩生誕地碑広場。名張市新町。
江戸川乱歩(本名平井太郎)は、明治271894)年、名賀郡役所の書記であった平井繁男の長男としてこの地に生れた。大正5年早稲田大学を卒業、同12年処女作「二銭銅貨」を発表、以来多くの傑作を著わして日本近代探偵小説を創始しその分野を確立した。
 
生後まもなく転居したために、乱歩にとって名張は「見知らぬふるさと」でありつづけたが、晩年になってようやく「ふるさと発見」が果たされ、昭和30年(1955)には名張市民の手で「江戸川乱歩生誕地」碑が建立された。
 
広場は2004年に名張市に寄贈された桝田医院第2病棟を解体した跡地に2008年度に整備された。
 
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江戸川乱歩生誕地碑。
碑には乱歩の書いた「幻影城」の「うつし世はゆめ よるのゆめこそまこと」という言葉が刻まれている。
 
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乱歩生誕地碑広場。説明板から。
 
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乱歩生誕地碑広場。説明板から。
 
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名張市葛尾(くずお)地区。名張毒ぶどう酒事件犠牲者慰霊碑のある墓地から集落を眺める。
離合困難区間が残る名張川に沿った県道から、葛尾へ向かう坂道を登り切ると、新築された公民館のある集落の中心地に着いた。
 
名張毒ぶどう酒事件とは、昭和361961)年328日の夜、三重県名張市の実質飛地と奈良県山辺郡山添村に跨がる葛尾地区の公民館で起きた毒物混入事件で、女性5人が死亡し、「第二の帝銀事件」として世間から騒がれた。
容疑者として逮捕・起訴された奥西勝(1926年~2015年)は死刑判決が確定していたが、冤罪であるとの主張と支援者らによる合計9回にわたる再審請求中、刑が執行されることなく89歳で獄死した。
 
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名張毒ぶどう酒事件の犠牲者慰霊碑。
事件現場となり、のちに壊された公民館と道を挟んで南側の広場の集合墓地に、犠牲者を慰霊する仏像が立っている。
 
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名張毒ぶどう酒事件の犠牲者慰霊碑。
昭和421967)年328日、七周忌のさい犠牲者慰霊碑が建立された。
 
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名張毒ぶどう酒事件の事件現場となった公民館跡地。
かつての公民館の場所が分からず、農作業の合間に戻った老婦人に場所を尋ねると、記者かねと問われた。場所は寺の下とかの話だったが、プレハブの建物が建っている場所らしい。結局はよく分からなかった。
 
このあと、名張市街地へ戻った。

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