杉谷神社。名張市大屋戸。
2017年5月17日(水)。
中世名張郡最大の豪族大江氏の氏神とされる杉谷神社は、永延年間(987~989年)に大江貞基によって始祖である「天之穂日命」を祀る神社として創建されたと伝えられる。
社殿は、天正の兵火で焼失したため慶長17年に再建された。木造桧皮葺入母屋造りで、向拝正面に軒唐破風を設け、華麗な桃山様式を象徴する造りになっている。慶長17年(1613)の棟札などから、桃山時代に建立した社殿を宝永年間に改修したことがうかがえる。平安時代の写経が残る。
名張市街地北西の名張川北岸の湾曲部高台に位置する。
杉谷神社。説明板。
名張は中世の東大寺領黒田荘で、黒田の悪党で知られる。黒田荘は立荘から衰退時までの史料が「東大寺文書」などに残存するため、多くの歴史学者の研究対象とされ、荘園関係、悪党関係の研究では欠かすことができない存在として著名である。
古代から中世への変革過程を実証的理論的に描き出したみごとな歴史叙述で,戦後歴史学の起点としての古典的地位をもつ石母田正「中世的世界の形成(原著1946、のちに岩波文庫)」は、20年ほど前に購入していたが、今回の旅行前に、新井孝重「黒田悪党たちの中世史 (NHKブックス、2005)」と、あわせて通読しておいた。
黒田荘は天平勝宝7年(755年)に孝謙天皇より東大寺に寄進された板蠅杣(いたばえのそま)に淵源をもつ。
1034年(長元7)に板蠅杣の四至が確定され、住人、杣工(そまく)の臨時雑役免除が認められ、1038年(長暦2)には、四至内の見作田が不輸租とされ、臨時雑役を免除された杣工が50人と定められた。
しかし、荘民は荘園拡大を図る東大寺の支援を受けて、周辺の公田を耕作して出作地を拡げることで、官物納入を拒んだ。更に、藤原実遠という人物が伊賀国にもっていた土地の一部が東大寺に渡ったことで、危機感を抱いた国司の藤原棟方及び小野守経は、黒田荘を攻撃して公領奪還を図った。
天喜元年(1053年)から3年間続いた戦いの結果、天喜4年(1056年)の官宣旨によって宇陀川・名張川より西側の地域に限定された(天喜事件)。それ以外の地域は没官されたものの、25町8段半に対する国使不入・国役免除が認められた。これが「黒田本荘」と呼ばれる黒田荘の中核地域となる。
黒田本荘を基地に、荘民の出作と公民の寄人化が進行し、宇陀川東岸の公領に広範な出作地帯が展開する。東大寺は、12世紀初頭に下司・公文などの荘官を置いて支配組織を整備し、さらに河東部の公領の私領主権を獲得して、1133年(長承2)新荘をたてた。
保元2年(1157年)に初代預所となった僧侶・覚仁の下向以後、現地の荘官である大江氏らの協力を得て、名張郡司源俊方を追放するなど支配体制の確立に成功する。そして、承安4年(1174年)には後白河院庁下文によって、黒田本荘・出作・新荘の一円不輸寺領化に成功する。
鎌倉時代に入ると、黒田荘にも武家の勢力が浸透し、職の分化による在地構造の変化によって東大寺による支配体制が弱体化して、有力な名主などが領主化の傾向を見せ始めた。特に、下司・公文など主要な荘官の職を独占した大江氏は、御家人と結んで公然と年貢の抑留を図るなど自立の姿勢を見せた。
このため、東大寺側は鎌倉幕府などの支援を受けてこれを鎮圧しよう図り、大江氏らは東大寺の支配に不満を持つ一部荘民の支援を受けながら抵抗を続けた。こうした荘官・名主・荘民たちは、本所である東大寺及び領家である同寺院家に逆らう者として「悪党」と呼ばれ、黒田悪党(くろだのあくとう)として後世にまでその名を知られた。
東大寺と黒田悪党の争いは、弘安元年(1278年)から90年近くにわたって断続的に続いた。室町幕府成立後、東大寺は伊賀守護職仁木義長を頼り、黒田悪党は南朝と結んだが、貞和2年(1346年)に義長によって黒田悪党は制圧され、その後応安2年(1369年)に至って再起した悪党側を完全に屈服させた。
室町時代になると、国人として成長を遂げた名主層を強力に支配するだけの力は東大寺にはなく、室町幕府や越智氏などの大和国の国人領主(衆徒)による助力に依存して、ようやく支配体制の維持を実現する状況であった。
嘉吉元年(1441年)の年貢100石の納入記録及び、戦国時代の永禄3年(1560年)における代官職請文が残されているものの、実態としては室町時代後期には荘園支配は解体に向かったと考えられている。
杉谷神社境内から名張盆地を見下ろす。
大江氏一族は歴史上著名な黒田悪党の主勢力で、東大寺の荘園支配強化を現地で支えながらも次第に実力を蓄えた武士団である。
名張盆地では院政期から源平内乱期にかけて、名張郡司の名族丈部(はせつかべ)氏、平氏の郎党となった紀氏、源氏に従い御家人となった平氏らの武士団が叢生していたが、もと在庁官人出身の大江氏は、他の武士団と争いを繰り返しながら、有力在地領主に成長し、鎌倉時代の中頃には東大寺の支配さえ退けうるほどの力を付けた。
大江氏の本拠地は、黒田本荘内で、名張川左岸の安定した丘陵地と若干の平地からなる大屋戸であったとみられる。伝承では、清和天皇の皇子で伊賀国を支配した貞基親王の子孫が大江を名乗ったといい、その氏神が大屋戸の杉谷社であった。
大江氏が史上初めて姿を現したのは、長承2年(1133)の東大寺東南院覚樹領田畠立券状に「下司散位大江朝臣」と見えるもので、これ以降、大江氏は現地荘官の最高責任者たる下司代々任じられた。下司職は、初代直定、貞成、則高、貞次、清定、泰定などと鎌倉末期に至るまで大江氏が代々世襲し、東大寺にとって大江氏は無くてはならない現地有力者であった。
平安時代末期、大江貞成は「譜代御荘官」・「御荘威猛第一之者」と称された。元暦元年(1184)、大江良直なる人物が、源俊方と合戦に及び、俊方を没落させるきっかけを作るなど、大江氏は他の競合者から抜きん出ていった。東大寺は寺領内に他の勢力と結びつく武士団を壊滅する政策をとっており、幕府御家人となった平氏や服部氏らは、東大寺によって勢力を減じ、譜代の荘官大江氏の力を増大させる結果となった。
鎌倉時代中頃、寛元元年(1243)の文書を見ると、黒田荘の荘官組織のうち、下司・総追捕使・公文職を、大江氏が独占している。東大寺は大江氏を通して、また大江氏は東大寺を背景に、それぞれ荘園領主、在地領主の立場から黒田荘支配を進めていった。
鎌倉時代の後半に至ると、実力を蓄え始めた大江一族の中には、両者の相互補完的な関係を逆転しようとする動きをはじめるものが出て、後に「黒田悪党」となって現れてくる。
その代表が鎌倉時代後期の悪党張本とされる大江清定である。清定は弘安元(1278)年ごろ東大寺に反抗,寺家より相伝の下司職を没収され,荘園管理組織からはずされた。いらい本所違背・供料抑留・山賊強盗をはたらき,「大犯」の悪党として鎌倉幕府の手により身柄を拘禁,弘安9年に出雲国へ流された。
しかし元亨4(1324)年2月までには黒田荘に還住,寺家敵対の活動を再開した。武家使節の取り締まりは手ぬるく,ために縁者の住宅を城郭にするなどの縦横の活動であった。嘉暦3(1328)年ようやく六波羅に召進された。