2017年5月17日(水)。
国道165号線から北の山肌に分け入る。急な坂道は多いながら人家の多い道路を屈曲しながら登ると、無動寺の駐車場に着いた。
東大寺領黒田荘の中心的な寺院であった無動寺は真言宗醍醐派で、本尊は鎌倉時代初期に造られた不動明王である。市域きっての古刹で、平安後期の創建と言われ、鎌倉時代初期には既に名張郡内の有力寺であったことが記録に残されている。
天正9(1581)年の天正伊賀の乱後に再建、寛文5(1665)年に名張藤堂家の、貞享2(1685)年には津藩主の祈願寺となった。
登ってきた坂道を下り、すぐ下の屈曲部にある駐車場に車を停め、上り坂の参道を歩くと勝手神社石段下の鳥居に着いた。
勝手神社は、もとは金刀比羅神社で、明治40年に近在の神社を合祀したときに現在名に改められたが、今でもコンピラさんとよばれている。
勝手神社は、千二百年前に東大寺黒田荘無動寺の僧、実誉上人が吉野より勧請し、同寺の鎮守としたのに始まると、説明板に記されている。
石灯籠は南北朝時代の作と推定され、高さ約1.7m。
境内からは名張市内が一望できる。
左から桔梗が丘団地、名張市役所、名張小学校、国道165号線黒田大橋。遠くは青山高原。
左から、百合丘が団地、名張市立病院、赤目中学校、赤目駅、遠くは尼が岳、俱留尊山。
ほとんどが、往時の黒田荘であったと思うと、感慨深い。
現在の名張市街地あたりは、簗瀬保という国衙領であった。その先に夏見がある。
手前に宇陀川が流れ、名張川と簗瀬の南で合流する。手前の山側が黒田本荘で、川向うが黒田出作新荘であった。宇陀川は氾濫を繰り返し、領域論争の種となった。
左に国道165号線黒田大橋、中央上は富貴が丘団地で、その下に夏見廃寺があるようだ。中央は古くから中村とよばれていた。
中央が赤目中学校で、右奥に赤目口駅と赤目四十八滝方向で、古くは矢川とよばれた地区。
奈良県道・三重県道781号都祁名張線の県境にある峠で、三重県側ではいわゆる険道の典型例として知られる。
勝手神社を下り、国道165号線から山の中へ急坂を進んでいった。まもなく、1台の車がUターンしているのに出くわしたが、その後1台の車とも遭遇しなかったのは幸いだった。
登山アクセスでこの程度の車道は良く経験しているが、カーブで曲がり切れず、切り返さなければばらない個所があり、ヒヤリとした。落石はほとんどないので問題はない。ただし、離合は困難。麓から10分ほどで、笠間峠に着いた。
幅員狭小、2トン車以上通行困難とあるのはその通りだった。
現在の県道ではない旧道の笠間峠からの伊賀盆地(黒田荘)の写真が書籍によく掲載されているので、期待してやってきた。
また、東大寺二月堂の修二会(お水取り)で使うたいまつを運ぶ「松明調進行事」は、現在まで700年以上続いており、名張市赤目町一ノ井の極楽寺から徒歩で旧道の笠間峠を越えて運ばれている。
看板を頼りに、旧道の笠間峠方面へ向かった。
民家の座敷に人が見えたので、笠間峠の場所を尋ねるとこの上すぐとのこと。
農作業をしている老婦人に、伊賀側を見下ろす展望地はどこかと尋ねると、山側の細い踏み跡を示し、昔は花火大会を見たものだが、今は入ることもないとのこと。
踏み跡を辿ってみたが、雑木が多くて諦めた。冬なら展望は得られるかも知れない。
極楽寺は翌朝見学することにして、南約3㎞ほどにある道の駅宇陀路室生へ向かった。